中川久嗣
南フランス・ドローム県中部のロマネスク聖堂(2)ヴェルコール山地
(ジャイアンからレオンセルをへてコボンヌまで)
『文明研究』(東海大学文明学会)第40号、2022年3月
26.2 ヴァランス周辺からヴェルコール山地へ[承前] 26.2.9 ジャイアン/サント=マリー教会(Église Sainte-Marie, Jaillans) ロマン=シュル=イゼールから県道D532を東へ11キロ進み、D564に入って南に2.5キロでジャイアン(またはジャヤン)のコミューンである。サント=マリー教会は、D564から西へおよそ250メートル入った旧ヴィラージュのほぼ中ほどに建っている。12世紀前半頃に、アルルのモンマジュール修道院の所有するプリウレ(小修道院)の付属聖堂として建設された。ロマン=シュル=イゼールやレオンセルの13世紀のカルチュレール(証書集)にその名が見出せる。大革命まではこの地はボールギャール=バレ(Beauregard-Baret、ここから南へ約3キロ)の小教区に属していた。 切妻形の西ファサードは19世紀のもので新しい。扉口は三角形のペディメントと、その下に付けられた二重の半円形アーキヴォルトから構成されている。そのアーキヴォルトは左右でそれぞれ2本ずつの小円柱(基壇の上に載り、柱頭彫刻を持つ)が受け止めている。4ベイからなる身廊の東側の2つのベイおよび内陣のベイの南北には、やはり近代になってから側室が増築された。何よりも後陣側から見た姿が12世紀のロマネスクの雰囲気をよく伝えるものとなっている。切り整えられた中石材が端正に積まれた半円形の後陣には、外側に向けて隅切りされた半円頭形の窓が3つ開けられている。その上には4段からなる大きな方形の鐘塔が立っている。最も上の段には、小アーチとそれを受けるモディヨンが連なるアーケード(ロンバルディア帯)が巡らされている。この最上段は19世紀に修復の手が加えられている。上の2つの段には各面に二重の半円形アーチが架かるベイが2つずつ並んでいる。その下の段には半円形のアーチがやはり各面に2つずつ並べられているが、すべてニッチである。この段の2つのアーチの間隔は、上の2段に比べると広くなっている。 内部は4つのベイからなる身廊、内陣のベイ、そして半円形の後陣が並ぶ。近年(1998-2002年)の修復と壁面の上塗りによって全体的にきれいな状態が維持されている。一番西のベイには(その次のベイにまではみ出す形で)階上席であるトリビューンが作られているが、これは14世紀のものである。このトリビューンは、下側を美しい4分交差リブ・ヴォールトによって支えられている。身廊の西側の2つのベイでは南北の側壁に半円形の壁アーチが並び、東側の側壁は、各ベイの南北に3つずつ増築された礼拝室との間に半円形のアーチが並ぶアーケードとなっている。それぞれの礼拝室には半円頭形の窓が開けられている。身廊部の天井はごくわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトが水平のコーニスの上に架かり、各ベイを区切る横断アーチは壁付き円柱が受け止めている。内陣のベイの上には4隅をトロンプによって支えられたクーポールが載り、さらにその上は方形の鐘塔である。この内陣のベイの北東角と南東角でアーチを受け止める壁付き角柱のインポストには、ひねり紐文様のモールディングが付けられている。後陣は半円形で、内部に向けて大きく隅切りされたロマネスク様式の窓が3つ開けられている。後陣の上には半ドームが架かる。 ジャイアンのサント=マリー教会をユニークなものにしているのは、堂内の柱頭その他の場所に残されている彫刻装飾である。西ファサードの扉から中に入ってまず目に留まるのは、西端のベイのトリビューンの下の、東側に架かる大きなアーチの弧頂部の要石(clé d'arc)において、訪れた者を迎えてくれる二人の不思議な人物の顔である。向かって右側の顔は少し大きな鼻を持ち、口を横に開いてこちらを睨んでいる。左側の顔は少し小さめで女性のようにも見え、やはり大きめの鼻があって丸い目を見開いている。口はない。12世紀にこの地を支配していた領主夫婦の顔であるとも言われる。 このトリビューンの下のベイの、ヴォールトを支える交差リブの四隅の基壇にもそれぞれ彫刻が残されている。北西角には大きな鍵と燭台らしきものを持って円柱の基壇の上に立つ聖ペトロ、南西角にはやはり円柱の基壇の上に立つアダムとイヴらしき二人の男女(あるいは教会への寄進者夫婦か)と大きなパルメット、北東角には多角形の柱の基壇の上に、髪を左右に長く伸ばした目の大きな女(セイレーン)と、口から見事な植物(パルメット)を左右に吐き出しながら大きな目でこちらを見つめる男がいる。男女とも目には穴が開けられている。南東角においても多角形の柱の基壇の上に、植物を吐き出す人面が2つ認められるが、この彫刻は摩耗が進んでいる。この四隅の彫刻は、かつては柱の上に置かれていたロマネスクの柱頭彫刻をここに据えたものであるようにも思われるが、G. Barruolなどはもっと後の時代に作られたロマネスク彫刻の模倣なのではないかとしている(例えばトリビューンと同じ14世紀前後のものであろうか)。 身廊の側壁において横断アーチを受け止める南北3本ずつの壁付き円柱にも柱頭彫刻が付けられている。北側では、東から順に、単純で図形的なアカンサスの葉飾り、目を見開いて横一列に並ぶ3匹の四足獣(ライオンあるいはオオカミか)、そしてトリビューンの上に、2頭のライオンにはさまれて立つダニエルの柱頭がある。2頭身くらいのコケシのようなダニエルは、ヒダのあるチュニック様の衣服を着てしっかりと立ち、正面を向いて丸い目を開いている。柱頭の冠板部分には『ダニエル書』第6章23節の言葉(「ダニエルは[ライオンの穴から]引き出されたが、その身になんの害も受けていなかった。神を信頼していたからである」)が2段にわたって刻まれている。この柱頭は、近年の修復の手が入っていることもあって、摩耗したり傷んだりした様子はなくきれいな状態である。次に身廊の南側では、東から順に、2人の人物(向かって左側の人物は立っており、右側の人物はひざまずいている)と植物を吐き出す人面、非常に精緻で美しいパルメット(左右対称に大きく葉を広げる)、そして西端のトリビューンの上にはやはりパルメットの柱頭がある。この最後の柱頭には、トリビューンの上にある北側の柱頭(ダニエルとライオン)と同じように、冠板に『ヨハネの福音書』第14章6節の言葉(「わたしは道であり、真理であり、命である。」)が刻印されている。P. Carlierらによれば、旧約に関わるテーマが現されたこうした彫刻は、ドローム県では比較的珍しいものであるという。 Barruol(1992)pp.323-324; Brun-Durand(1891)p.181; Carlier, Morin E., Morin F.(1989a)p.36; SAF(1996), no.9, pp.101-102; RIP. 26.2.10 ボールギャール=バレ/メマンのサン=タンヌ教会(Église Sainte-Anne de Meymans, Beauregard-Baret) ロマン=シュル=イゼールから県道D532を東へ7キロ進み、県道D522に入って南へ約5キロである。サン=タンヌ教会はメマンの集落のほぼ中ほどの、D522沿いに建っている。ジャイアンからは« Coteaux de Baret »の丘陵地をはさんで直線距離にしておよそ2キロ南西に位置する。12世紀前半頃、ジャイアンのプリウレ(小修道院)[26.2.9]に付属する分院という形で、それと同じ時期あるいはその少し後にここに建設された(ジャイアンのプリウレ自体、アルルのモンマジュール修道院の管轄のもとにあった)。初めこのメマンの聖堂は聖母に捧げられ、ジャイアンと同じくサント=マリー(ノートル=ダム)教会と称した。中世にヨーロッパのあちこちで流行したことで知られる麦角病(麦角菌中毒)が11世紀頃にはこのあたりでも広がったが、それを治癒するとも言われた聖アントニウス(アントワーヌ)の聖遺物をこのメマンのプリウレが持つとされたため、その病に苦しむ巡礼が数多く訪れたという。15世紀にはジャイアンとともに、アルルのモンマジュール修道院の管理下から離れている。宗教戦争期の1563年、プロテスタント(ユグノー)によって、やはりジャイアンのサント=マリー教会とともに火をつけられた。16世紀後半頃には建物全体が改修されるとともに、特に身廊部の上に巡回路を付けるなどの要塞化工事が施された。1580年に聖堂は現在のサン=タンヌ教会へと名前を変えている。フランス革命後は略奪を受けるなどし、その後「理性の神殿」とされた。21世紀に入ってから、とりわけ聖堂内部の修復が行われ、内部は今もきれいな状態が維持されている。 現在残るサン=タンヌ教会は、12世紀後半頃の建設とされる。西ファサードは要塞化の影響もあって長方形の壁面を前面に出したものとなっている。向かって右下には末広がりの小さな扶壁が付いている。扉口は半円頭形のシンプルなもので、かつてそこにあったペディメント付きのポーチの痕跡が残されている。扉口の上には半円頭形の大きな窓が1つ開けられている。身廊の側壁は、南北ともに上部にモディヨンの並ぶコーニスが巡るが、南壁のそれは巡回路の壁の下に付けられたどちらかと言うと装飾的なものである。また南壁にのみ、半円頭形の窓が2つ開けられている。この身廊部南側の外壁は、中程の高さのところを境にして上下の石の色が異なるが、色の濃い上半分は1563年にプロテスタントによって放火された際の焼け跡であるとも言われる。一方身廊の北側には近代になってから増築された側室が張り出している。 トランセプトは南翼には南西の角部分に、要塞化された時に付け加えられたと思われる方形の小塔が見られる。その内部は、交差部の上の鐘塔に登るための螺旋階段となっている。この小塔の裏側(つまりトランセプト南翼の西壁)の狭い壁面スペースには、半円頭形で非常に細長い出入口が付けられている。またそのすぐ上にはかつて開けられていた半円頭形の窓の跡が残されている。身廊の壁に半分近くが塞がれているので、16世紀の改修・要塞化以前にはこの南翼の窓として採光の役割を果たしていたのであろう。トランセプト北翼は上部が三角形のペディメントとなり、半円頭形の窓が1つ開くだけのシンプルなものである。 聖堂東側の外観は、半円形の主後陣と、その左右にやはり半円形の小後陣が並び、交差部の上に方形の小塔が立ち上がる。それはジャイアンの場合と同じように、古いロマネスクの特徴を今によく伝えるものとなっている。主後陣と小後陣は、長年の歳月の経過とともにその壁面には多少の歪みが生じてはいるものの、整形された凝灰岩の中石材がしっかりと積まれている。上部にはモールディングのコーニスが巡らされている。主後陣の南北面には隅切りされた半円頭形の窓が開けられているが、中央(東端)の窓は塞がれている。同様に南側の小後陣の2つの窓も埋められてしまっており、かつての窓枠の石だけが残されている。北側の小後陣には窓やその枠などの痕跡は何も残されていない。交差部の上の方形の鐘塔は4段(交差部の基壇部分を入れると5段)からなっている。そのうち古いロマネスク期のものは基壇部分を含めて下の3段で、上の2段は16世紀後半頃に聖堂全体が要塞化された際に改修(または再建)されたものである。基壇のすぐ上の段には、各面にニッチの半円アーチが3つずつ並ぶ。ただし南面のみ2つで、その代わりにトランセプトの南翼から鐘塔に登るための階段が通る通路が開けられている(おそらく16世紀のもの)。その上の段は各面に三重のアーキヴォルトに縁取られた半円形のベイが1つずつ開けられている。その上の2段は、各面にシンプルな半円頭形のベイが1つずつ開けられている。 内部は近年の修復によってきれいに整備されていて、壁面なども上塗りされたうえに石組みまで線で描かれてり、古さはほとんど感じられない(一部に19世紀まで描かれていたフレスコ画の名残がわずかに残されている)。身廊は、天井が建設当初よりも低い位置に架けられた半円筒形のトンネル・ヴォールトとなっていて、そこには横断アーチもなく、ベイの区切りも認められない。身廊西端には二階席が設けられている。身廊とトランセプトの間には大きなピラストルが内部に張り出し、二重の半円アーチが架けられている。交差部を四方から取り囲むアーチも二重で、これらはその上に立つ方形の鐘塔を支えている。主後陣とその左右の小後陣はすべて半円形で半ドームが架かる。主後陣の東端(中央)の窓は埋められているが、南北に開けられたロマネスク様式の小さな窓にはステンドグラスがはめ込まれている。 Barruol(1992)p.332; Brun-Durand(1891)p.30; Carlier et Morin(1989)p.37; RIP. 26.2.11 オスタン/サン=マルタン教会(Église Saint-Martin, Hostun) ロマン=シュル=イゼールから県道D532を東へ10キロ進み、レカンシエールから県道D425に入って東へ約4キロでオスタンのコミューンである。中ほどのところに新しいサン=モーリス教会が建っている。そこからさらに1.3キロほど東へ行くと、サン=マルタン教会が建つ小さな広場に出る。ヴェルコール山地の北西端に位置する山間の静かなこの地に、ベネディクト派のプリウレ(小修道院)が創建されたのは11世紀後半頃のことである。同じ世紀のロマン=シュル=イゼール修道院のカルチュレールや13世紀のレオンセル修道院のカルチュレールの中にオスタンのサン=マルタンの名が見出せる。13世紀以降は、グルノーブル近郊のサン=ロベール=ドゥ=コルニヨン修道院(prieuré Saint-Robert-de-Cornillon)の分院として知られるが、サン=ロベールはさらにオーヴェルニュのラ・シェーズ・デュー修道院の分院でもあったので、オスタンのサン=マルタンのプリウレは、ラ・シェーズ・デュー修道院のいわば「孫娘」修道院としてその拡大発展の一翼を担ったのであった。その後は、1850年までオスタンの教区教会としての役割を果たした。 サン=マルタン教会は、北側と東側を古い墓地に囲まれている(いくつかの墓石がうち捨てられている)。建物には14世紀から19世紀まで改修・増築の手が加えられており、さまざまな時代の建物が組み合わされている。16世紀以降に改修された西ファサードは、近年になって漆喰で上塗りされ、さらに18世紀以降にすぐ南側に隣接する形で建てられた苦行会員の礼拝堂(chapelle des Pénitents)の建物が、これもまたピンク色に塗られていることもあって、まったく古さを感じさせない。半円頭形の扉口、三角形の切妻の頂部とその下の半円頭形の縦長の窓、そして向かって右側に開けられた丸窓(内部では側廊の西端の位置にあたる)が、不規則でバラバラな位置に付けられている。西ファサードの向かって左側の壁面にはガロ=ローマ時代の碑文の刻まれた墓石が埋め込まれていたが、残念ながら最近になって撤去された。苦行会員の礼拝堂の西ファサードには半円頭形の扉口と大きな丸窓が開けられている。身廊の南側外壁はわずかに末広がりの台形で、見える範囲で2ヶ所に半円頭形の窓が開けられている。身廊の北側には15世紀から18世紀にかけて増築された聖アンナと聖母マリアに捧げられた2つの礼拝室が並ぶ。 オスタンのサン=マルタン教会で最も古さを感じさせるのは東側の後陣の外観である。ただしそれはいたってシンプルなもので、小石材が積み重ねられた後陣は平面形で、途中まで立ち上がる厚みのない方形の扶壁が2つと、その間の上の方に開けられた縦長で半円頭形の小さな窓があるだけである。この窓の頭部の石は一枚岩のリンテル(おそらくは11世紀頃のもの)である。後陣壁の北東角には方形の扶壁が付けられているが、これは非常に厚さがあってしかも外側に大きく張り出している。また後陣の南には、18世紀以降に建てられた聖具室が、やはり外側に張り出す形で建てられている。トランセプト南翼の上に、方形の鐘塔が立ち上がる。その最上部には四方に大きな開口部が、四隅の柱に支えられる形で設けられている。 聖堂はもともとはラテン十字形であったが、主に16世紀以降にさまざまな建物が増築されたために、全体的に複雑な構造になっている。身廊にはピラストルや横断アーチはないので、明確なベイの区切りもない。天井は半円筒形のトンネル・ヴォールトである。身廊の北側には西から聖アンナの礼拝室と聖母の礼拝室が並んでいる。ともに18世紀に増築されたものである。身廊の南側には、側廊のようにして西から領主の礼拝室(別名マグダラのマリアの礼拝室、14世紀)と、鐘塔の下の部屋(11世紀)が、6段の石段をはさんで並んでいる。身廊からやはり5段の石段を登ると内陣となる。この石段の左右両側の柱から平面形の後陣までが、11世紀にさかのぼるロマネスク期の部分であるが、19世紀以降に描かれた多少過剰とも言える壁画装飾のために、あまり古さは感じられない。内陣には大理石製の祭壇が置かれ、その後ろには木製の衝立が後陣全面に立てられていて中央の窓は見えない。その衝立には司教の衣装をまとって立つ聖マルティヌス(聖マルタン)の絵が掲げられている。 サン=マルタン教会の南側に接続する苦行会員の礼拝堂は東西に延びる長方形で、建設は17世紀(あるいは18世紀)である。サン=マルタン教会の鐘塔の下の部屋から直接行き来ができるようになっている。また西ファサード以外にも礼拝堂南側に出入口が開けられている。内陣部分に相当する東側の壁には祭壇が置かれ、その上には3人の聖人すなわち聖エチエンヌ(saint Etienne/聖ステファヌス。最初の殉教者で紀元前35年頃に没)、聖アンヌモン(saint Ennemond/7世紀のリヨンの司教)、 聖フランソワ=レジ(saint François-Régis/17世紀に南仏を中心に活動したイエズス会士)の前にひざまずく2人の苦行会員(ペニタン)の姿を描いた絵が掲げられている。残る西・南・北の3つの壁際には、見事な木製の聖職者席が据えられている。この聖職者席は20世紀後半に礼拝堂全体とともにきれいに修復されている。現在、サン=マルタン教会や苦行会員の礼拝堂は、コンサートや美術展覧会などの各種イベントにも利用されている。 Barruol(1992)p.323; Brun-Durand(1891)pp.177-178; Carlier, Morin, Guérin(1989)p.36; SAF(1991)no.5, pp.237-238; RIP. 26.2.12 ラ・モット=ファンジャ/サン=クレール教会(Église Saint-Clair, La Motte-Fanjas) ラ・モット=ファンジャ(またはラ・モット=ファンジャス)は、ロマン=シュル=イゼールから県道D532を東へ18キロ進み、サン=ナゼール=アン=ロワイアンからD76に入って南へ2キロである。すぐ北のイゼール県との県境までは500メートルで、かつてのヴァランス司教区の最東端に位置する。サン=クレール教会は小規模な集落のほぼ中ほどに建っており、通りをはさんですぐ向かい側には村役場がある。この地には、古くは10世紀頃に聖堂が建てられていたようであるが、12世紀にはベネディクト派のサン=シャフル修道院(現在のオート=ロワール県モナスティエ=シュル=ガゼイユ)傘下の小修道院の付属聖堂となっていた。またその当時はサン=ピエール教会と呼ばれていた。現地解説板によると、この小修道院は1204年からはアルルのモンマジュール修道院の傘下に入ったようである。 現在のサン=クレール教会の建物の主要な部分は、近代(19世紀)になってから建設された比較的新しいものである。東側に付けられた半円形の大きな後陣が印象的である。窓は開けられていない(後陣南側にかつて開けられていた窓の痕跡は残されている)。西ファサードには二重のアーキヴォルトが架かる半円頭形の扉口があり、その上に大きな丸窓が開けられている。 このサン=クレール教会で最も古いのは、大きな後陣のすぐ南に立つ方形の鐘塔(tour-clocher)で、12世紀にサン=シャフル修道院傘下にあった時代のものである。ヴェルコール山地のロワイアン地方からアルプスにかけてよく見られるタイプの鐘塔である。3段構えとなっていて、最も下の基壇部分は、あまり切り整えられていない小石材がラフに積まれている。東側には半円形の小後陣が付けられており、その壁面の上の方に小さな縦長の窓が開けられている。またそのすぐ下には、おそらくは19世紀頃に開けられた方形の窓があり、鉄格子がはめられている。この小後陣部分は、10世紀頃に建てられていた古い聖堂の名残であるのかも知れない。鐘塔のこの基壇部分の西側には半円頭形の細長い出入口が付けられており、さらにそのすぐ上には細長い窓も開けられている。この基壇部分の西側は、鐘塔の南側に隣接して建てられている住宅の敷地の中にあたる。鐘塔の中間の段、つまり2階部分は、北面を除く東西南の3つの各面に半円形の壁アーチが2つずつ並べられ、この壁アーチにはそれぞれ内側の下の方に細長い開口部が開けられている。これは一種の銃眼であり、この鐘塔が防御的な役割も果たしていたことをうかがわせるものである。鐘塔の最上段(中間の段よりは縦の長さが短い)には、やはり四方の各面に二重のアーチに縁取られた半円頭形の開口部(ベイ)が2つずつ並べられている。開口部の二重のアーチのうち、内側のアーチはそれぞれ左右のピラストルの上の水平のコーニスの上に架けられている。この最上段と鐘塔の塔頂部のピラミッド状の屋根の間には、幅の狭い帯状のスペースが巡り、各面の角と中央部分に装飾的なモールディングが斜めに付けられている。 Barruol(1992)p.326; Brun-Durand(1891)pp.238-239; RIP. 26.2.13a ブヴァント/ヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院 (Chartreuse du Val-Sainte-Marie, Bouvante)遺構 ロマン=シュル=イゼールからサン=ジャン=アン=ロワイアン(Saint-Jean-en-Royans)までは県道D532とD76で約27キロあり、そこからD131で南へおよそ5キロでサン=マルタン=ル=コロネル(Saint-Martin-le-Colonel)に入る。D131をそのまま進みブヴァントのコミューン内のレ・ヴィーニュ(Les Vignes)地区を通って、さらに500メートルほど行くとD131が大きくカーヴして東に向けて張り出す場所に、リヨンヌ川(La Lyonne)の支流に架かる短い橋がある。その橋を南に向けて渡った橋のたもとに、県道から分かれて東に向かう細い山道があるのでそれを500メートルほど歩くと、サント=マリー渓谷に残されたヴァル=サント=マリー・シャルトルーズ修道院の遺構に至る。別名をブヴァントのシャルトルーズ修道院(Chqrtreuse de Bouvante)とも言う。D131をそのまま300メートルほど南に進んだところにあるシャルトルーズ修道院の別館[26.2.13b]を「下の館」(Maison basse)と呼ぶのに対して、この渓谷に残る建物の方を「上の館」(Maison haute)と呼ぶ。 ケルンのブルーノ(Bruno)がグルノーブルの北にグランド・シャルトルーズ修道院(monastère de la Grande Chartreuse)を創建したのは1084年のことであった。これを母院として、以後いわゆるカルトゥジオ会(カルトゥジア会)がヨーロッパ各地に拡大・発展してゆく(本稿では「シャルトルーズ修道院」と表記する)。その分院としてヴェルコール山地のこの渓谷にヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院が建設されたのは1144年のこととされる。土地などは、この地を支配していた封建領主で最初に「ドファン・ドゥ・ヴィエノワ」(Dauphin de Viennois)を名乗ったことで知られるアルボン伯ギーグ5世(1125頃-1162)の寄進による。ラ・グランド・シャルトルーズの本院から十数名の修道士がやって来た。ここより南のブヴァント=ル=オー(Bouvante-le-Haut)地域には、それより前にディジヨンのサン=ベニーニュ修道院の修道士たちが進出していたが、1189年にディーの司教ロベールの仲介もあって、ヴァル=サント=マリー・シャルトルーズ修道院がそこを手に入れ、サント=マリー渓谷からブヴァント=ル=オーにかけての地域の山林開発や土地の経営、牛や羊の牧畜などに力を入れることになる。 ヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院から南西へ直線距離でおよそ8キロの場所には、すでに1137年にシトー会によってレオンセル修道院が創建されており、シャルトルーズ修道院が次第に南へと勢力を拡大するにつれて、このレオンセル修道院との間で所有地の境界を巡って争いが起きるようになった。1190年と1192年には、シャルトルーズ会とシトー会に所属する近隣の何人かの修道院長やディー司教などを仲介者として、ヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院とレオンセル修道院の間で土地争いの調停が行われた。その際にはシャルトルーズからの金銭的な支払いなどもあって、両者の土地の境界の確定や放牧家畜の移動ルートなどについての解決が図られた模様である。また1349年には、ドフィネがフランス王領に編入される前に、最後のドファン・ドゥ・ヴィエノワであるアンベール2世がヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院の所有地を王領地から分離して安堵している。シャルトルーズ修道院の修道士たちは、こうして常に所有する土地の安定的な所有と経営に気を遣うことになったのであるが、例えばそのために設置された土地の境界石が、山間部のあちこちに今も残っている。その境界石には、最初に土地を提供したドファンのシンボルであるイルカの姿、あるいは十字架などが刻まれている。彼らは所有する土地に家畜飼育のための牧場や農地経営のための農場・穀物倉庫(grange)、そしてまた近代になってからは製鉄所などを作った。 創建後は修道士自体の数はあまり多くならず、5人から12人の間くらいで推移したようである。1306年にはドファン・ドゥ・ヴィエノワであるアンベール1世が妻の死後にこのヴァル=サント=マリーの修道院に隠棲し、翌1307年に亡くなっている。宗教戦争の影響はヴェルコール山地の人里離れたこの渓谷にも波及し、シャルトルーズ修道院は1565年(または1567年)と1574年にプロテスタントによって焼かれた。その時期の修道院長ダゴノー(Dom Dagonneau)は修道院の再建に尽力するが、その衰退はいかんともし難く、1584年には修道士の数は2人にまで減ったと言われる。その後、修道士の数は多少とも回復し、フランス革命勃発時には10人あまりいたようであるが、革命後の1791年に修道院は廃止されてしまい、周辺に所有していた農場などと共に、すべて国有財産として売却された。 シャルトルーズ(カルトゥジオ)修道会の修道院と言うと、例えばグルノーブル近郊のグランド・シャルトルーズ本院や、南フランスではヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニヨンの祝福の谷のシャルトルーズ修道院などのように、普通は広い敷地に修道士たちの独居房、礼拝堂、集会室などの建物が並ぶ姿が思い浮かぶのであるが、現在のサント=マリーの渓谷の両側から山が迫る狭い谷間と深い森の様子からは、そこにかつてあった大きなシャルトルーズ修道院の様子を想像するのはなかなか容易ではない。19世紀中頃あるいは20世紀初め頃までにはまだ建物(修道士の居館、食堂、集会室、クロワトル、時計塔、礼拝堂、そしてそれらを取り囲む周壁など)は良好な状態で残されていたようであるが、その後は荒廃・倒壊が進み、現在はまったくの廃墟と化し、残された遺構も急速に失われつつある。修道院のロマネスク聖堂については、現在はほとんどその面影は残されていないが、19世紀半ばのL. Bessetの報告によると、それは大きな中庭に面しており、東西20メートル、南北7メートルで、一般信者・農地小作人の席と修道士の席のある2つの部分に分かれていたという。内陣は半円形で、木製の見事な聖職者席が据え付けられていた。また西ファサードの扉口とその上に付けられた窓はゴシック様式であった。内陣にあった木製の聖職者席と内陣壁の装飾パネルは、革命後に取り外され、サン=ジャン=アン=ロワイアンの教会の内陣に移された。また西ファサードのゴシック様式の扉口と窓は、やはり革命後にサン=マルタン=ル=コロネルの教会の西ファサードに移設されていて、そこで見ることができる。 Aniel(1983)pp.92-94; Barruol(1992)p.395; Besset(1858)pp.282-287; Brun-Durand(1891)p.48, p.116; Derbier et Meunier(1988)pp.22-33; Wullschleger(1988b)pp.43-52; Wullschleger(1988c)pp.62-68; Wullschleger(2003)pp.2-15. 26.2.13b. ブヴァント/ラ・クルリーの「教会」(« Église » de la Courerie, Bouvante)privée ヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院[26.2.13a]のすぐ西にある。県道D131からサント=マリーの谷へと分け入る道に入らずに、そのまま約200メートル南に進む。ヴァル=サント=マリーのシャルトルーズ修道院に付属するいわば別館として、修道院とぼぼ同時期に建てられたと思われる建物群が残っている。もっぱら助修士などがここに居住したとされる。ヴァル=サント=マリーの修道院が「上の館」(Maison haute)と呼ばれたのに対して、「下の館」(Maison basse)と呼ばれた。「上の館」と同様、宗教戦争によってかなり被害を受けた。現在は敷地全体が私有地(農家)となっており、通常は中に入ることはできない。 現在残る「下の館」は、全部で5つの建物からなっている。最も主要な建物は、西端にある3階建ての農家の母屋であるが、これはかつては家畜小屋であった。東から2番目の、ゆるやかな傾斜地に建つのが「教会」(église)と呼ばれる長方形の建物である(東西長およそ19メートル、南北幅は8.5メートルで、現在は農家が倉庫などとして使用)。全体は凝灰岩の中石材がきれいに積まれたものとなっているが、建物の四隅だけは石灰岩の大石材の石積みである。西ファサードには、大きな一枚岩のリンテルが載る方形の扉口、縦長の方形の窓、そしてロマネスク様式で隅切りされた半円頭形の窓が、下から順に縦一列に並ぶ。南側の壁には、枠組みが二重になった半円頭形のロマネスク様式の大きな窓が3つ並んでいる。そのうち東側の2つの窓は近年になって修復されたものである。反対側の北側の壁には半円頭形で高さが3.6メートルという大きな出入口があったが、現在は埋められている。東側の壁は平面である。内部は大きく2つのベイからなり、西から順に幅が狭くなっている。天井は現在は木造の三角屋根であるが、建設当初はおそらくは半円筒形のヴォールトが架けられていたのではないかと思われる。 ラ・クルリーの「下の館」には、「教会」とともに、そこから少し北に離れた所に長方形の「礼拝堂」(chapelle)と呼ばれる建物も残っている。19世紀には製材所として使用されたが、現在はやはり農家の倉庫である。「教会」と同じように、西ファサードには大きな扉口、縦長の方形の窓、細長い銃眼のような開口部が縦一列に並んでおり、向かって左側の、扉口と縦長の窓の間の高さのところには、19世紀以降に開けられた方形の窓がある。また中ほどの方形の窓までを含み込む形で、かつてそこに付けられていた尖頭形のポーチの名残が壁面に認められる。東側の壁には農家によって大きな方形の出入口が2段にわたって開けられている。家畜や穀物類、あるいは農機具などの搬入のためのものであろう。北面の壁にはロマネスク様式の半円頭形の窓が2つ、南面の壁には1つ開けられている。また南北ともに上部には木造の三角屋根のすぐ下に、円筒形のコーニスが巡らされている。 同じ敷地の中に「教会」と「礼拝堂」があるというのは珍しいと言える。J.-P.Anielは、「礼拝堂」の方は特別な個人のために使用されたものなのではないかとしている。それは修道院長、寄進を行った領主、あるいは外部から来訪する身分の高い賓客のためのものであったのであろうか。 Aniel(1983)pp.92-94; Barruol(1992)p.395; Derbier et Meunier(1988)pp.23-24; Vialettes(2002)pp.173-176; Vialettes(2003)pp.70-84. 26.2.14. レオンセル/レオンセル修道院(Abbaye de Léoncel, Léoncel) レオンセルは、イゼール川とドローム川の間に南北に連なるヴェルコール山地のほぼ中ほどに位置する。北のサン=ジャン=アン=ロワイアンからは D70で19キロ、南のクレ(Crest)からはやはりD70で35キロである。ヴァランスからだと県道D68で真東へおよそ36キロである。レオンセルの標高は912メートルであり、ヴァランスから向かうと標高1086メートルのレ・リムーシュ峠(col des Limouches)を越えなければならない。その峠を越えると、山間に広がる緑の小さな平原に出る。レオンセル修道院はその平原の北の端に建っており、その姿はまるで美しい絵を見ているかのようである。 1137年8月、現在のイゼール県ヴィルヌーヴ=ドゥ=マルク(Villeneuve-de-Marc)にあったシトー派のボンヌヴォー修道院(abbaye de Bonnevaux)の4番目の娘修道院として創建された(ボンヌヴォー修道院自体がシトー修道会の7番目の分院であるが現存しない)。その名は、正確にはレオンセルのノートル=ダム修道院またはレオンセルのサント=マリー修道院と言う(本稿では「レオンセル修道院」とする)。1150年から最初の付属聖堂の建設が始められた。 1163年にレオンセルの修道院長に選ばれたシャトーヌフの聖ユーグ(saint Hugues de Châteauneuf)は、レオンセルでは最も知られる人物の一人で、彼は教皇アレクサンドル3世から改めて修道院の保護と所領の確認を得て、その発展に尽力した。彼は1169年、母院であるボンヌヴォー修道院の院長に選ばれている。1188年5月11日、修道院長ギヨーム(Guillaume)のもとで付属聖堂の後陣、トランセプトなどの建設工事が終わり(第1期)、献堂式がディー司教やボンヌヴォー修道院長ユーグも臨席のうえ、ヴァランス司教(文献によってはヴィエンヌ司教)によって執り行われている。しかしその後も身廊部の改築工事などが1230-1240年頃まで続けられた(第2期)。 1194年(または1193年)、レオンセルから西へおよそ22キロの平野部にあるラ・パール=デュー(La Part-Dieu、ロマン=シュル=イゼールから南東8キロ、ヴァランスからは北東へ20キロで、現在のChatuzange-le-Goubetのコミューン内)に拠点を置いていた共住律修士のグループを吸収・統合し、ラ・パール=デューはレオンセルの分院施設となった。冬期の寒さが厳しい年などは、レオンセルの修道士たちはここに移ってその冬を過ごした。この頃、レオンセルの修道士は20名を数えたという。 付属聖堂の第2期の工事は、当初の予定よりも高さを加えた身廊部および側廊の建設が行われ、遅くとも1240年頃には完了した。この時期、すなわち13世紀はレオンセル修道院の最盛期にあたる。修道士は20人、助修士(農作業や牧畜に携わり、修道院の運営の手助けをする者たち)は30人を数え、周辺の山間地のみならず、イゼール渓谷とヴァランス平野にも所領を保有し、その範囲は南はボーフォール=シュル=ジェルヴァンヌ(Beaufort-sur-Gervanne)、東はアンベル(Ambel)の平原にまで及んだ。それらの土地では、シトー派らしく修道士による直接開発・経営も行われた。またあちこちにグランジュ(グランギア)と呼ばれる農場あるいは穀物倉庫が作られた。 しかしそれに続く14世紀は厳しい時代となる。ペスト(1346年)、飢饉、百年戦争の混乱、傭兵隊による略奪と放火(特に1357年)などの災禍がレオンセルを立て続けに襲った。また助修士の減少も深刻化した。こうしたなか、修道士は10名ばかりとなり、レオンセルは半ば放棄される形で修道士たちは山を下りて平地(ロマン=シュル=イゼールやラ・パール=デューなど)に避難した。周辺の土地の経営は、契約によって在地の農民に任せることとなった(le faire-valoir indirect)。つまりレオンセル修道院が封建領主化したわけで、14世紀から15世紀半ばまでこのプロセスが進んだ。1389-1390年には、百年戦争の混乱の中、ヴァランティノワ伯との戦いを続けるレーモン・デュ・テュレンヌ(Raymond de Turenne)とその傭兵たちがレオンセルを襲撃し略奪した。クロワトルと修道院の建物が「アルマリウム」など一部を除いて破壊された。またレオンセルが各地に保有していたグランジュも略奪された。1397年、ヴェルネゾン女子修道院[26.2.1]との合併が検討されるが、結局は実現されなかった。 15世紀に入ると、修道院生活の一時的な回復が見られた。修道士たちはレオンセルに戻り、修道院の建物の修復も行われた。しかし束の間の平穏も、16世紀の宗教戦争によって打ち破られる。レオンセルはプロテスタント勢力による格好の攻撃の対象となるが、とりわけ1567-1568年にはアドレ男爵(Baron des Adrets)の軍勢によって後陣、修道士の居館、食堂(réféctoire)などが襲われて焼かれた。修道院長もレオンセルを離れることが多くなり、例えば1591年には、修道院長アレクサンドル・フォール(Alexandre Faure)がレオンセルを離れてリヨンに避難している。 こうした流れの中、1681年には修道院長Marc Girard de Riverieの死とともに、レオンセルにコマンド院長制(régime de la Commende)が導入された。これは修道院長が修道士たちによって選ばれるのではなく、その修道院とはもともと関係のない人物である聖職者あるいはしばしば俗人が、国王によって任じられる制度である(教皇もそれを追認するだけであったとされる)。彼ら国王任命のコマンド院長(abbé commendataire)たちの主要な関心は、修道生活にではなくその地位から得られる経済的な収入にあったのであり、このことは修道院の運営に打撃を与えただけでなく、何よりも現地の修道士たちの精神的な混乱と堕落を引き起こした。レオンセルにおいては、シトー会によって任じられた院内修道院長(prieur claustral)が修道士たちの霊的指導の任に当たったが、院内修道院長は、国王任命のコマンド院長の方針や決定には逆らうことはできなかった。レオンセルのコマンド院長たちは、山の上にあるレオンセルには寄りつかず、平地にあるラ・パール=デューに住むことの方を好んだ。 17-18世紀にはレオンセルの凋落が続いた。修道士たちも山を下りてラ・パール=デューなどの平地の居館に避難することが多くなった。周辺の領主や近隣の農民たちとの間で土地争いが続いたのもこの時代のことである。1726年にはシトー修道会の総長エドモン・ペロ(Edmond Perrot)がレオンセルを訪れ、かつての清貧な修道生活に戻るように説いたが、修道院の衰退に歯止めをかけることはできず、1750年には修道院をラ・パール=デューに完全に移してしまうことも検討されたほどである。 それでも1730年には、付属聖堂の西ファサードの改修が行われている。中央のポルタイユが拡張され、西ファサードの丸窓も大きくされた(両側のポルタイユはこの時に閉鎖された)。また交差部の上のクーポールが架け直され、後陣の修復と鐘塔の再建も行われた。さらに身廊北壁が扶壁で補強され、聖堂南側の修道院の建物(修道士の居館)なども新古典主義様式で再建されている。このような一時的な復興の動きにもかかわらず、18世紀後半には修道士たちは平野部のモンテリエ(Montélier、ヴァランスの東12キロ)などに滞在し、レオンセルに留まるのはごくわずかの修道士のみとなった。 レオンセルの命脈に最終的に終止符を打ったのは、1789年に起こったフランス革命であった。近隣農民はレオンセルを襲撃し、修道院の建物を焼くなどした。1790年、当時いた数名のシトー会修道士は故郷に戻り、残された1名だけが宣誓司祭として残った。しかし同年、レオンセル修道院は正式に廃止され、翌1791年には修道院および修道院が所有していた山間部の森林地や平野部の所有地などはすべて国有財産として売却された。付属教会がその後は教区教会として存続し、破壊されることがなかったのは誠に幸運なことであったと言えよう。1840年、レオンセル修道院はプロスペール・メリメによって「歴史的建造物」に登録された。1854年にはレオンセルのコミューンが設置され、1905年になって修道院はコミューンの所有となる。1950年、18世紀の南館が取り壊された。1974年、「レオンセル友の会」(l'association « Les amis de Léoncel »)が設立され、修道院の修理・保存を進め、修道院に関する学術的な会合を開催するとともに、その成果を刊行するなどの活動を現在も続けている。 レオンセル修道院は、シトー派建築の基本原理に従って建物が配置されていた。中央に正方形の大きなクロワトル(回廊)があり、その北側には付属聖堂と墓地、東側には修道士の居館、集会室(salle capitulaire)、修道院長の部屋、修道士の共同大寝室(dortoir)、南側には暖房設備を備えたさまざまな用途の居室、台所、修道士の大食堂(réfectoire)など、そして西側には助修士の居館や倉庫などが配されていた。そのうち現存するのは付属聖堂とそのトランセプト南翼から連続する修道院の建物(修道士の居館など)であるが、そのうち修道院の建物は18世紀に再建されたものである。 最初に付属聖堂の建設が始まったのは1150年のことであるが、先にも触れたように、その建設時期が大きく2つに分けられるため、いくつかの建築様式が組み合わされたものとなっている。最初に建設が始められた時期は北フランスではすでにゴシック期に入っており、シトー修道会の建築には全体的に見られる特徴であるが、ここレオンセルにおいてもロマネスクとゴシックの2つの建築様式の融合が見て取れる。最初の第1期に作られたのは1150-1160年に工事が始まった主後陣(内陣)およびトランセプトと小後陣で、1188年に献堂された。第2期は1190-1230年(遅くとも1240年頃まで)で、身廊部分が最初の計画よりもかなり高さが加えられて建設された。また南北の側廊も増築された。 西ファサードは1730年に改築されている。主身廊である中央部の背が高く、その上部は三角形の切妻である。切妻の下にはモールディングで縁取りされた半円頭形の大きな窓が開けられている。窓の両側には基壇の上に小円柱が置かれ、丸く渦を巻く植物の葉の柱頭彫刻が水平のインポストを介してアーチを受け止めている。西ファサードの左右両側、すなわち側廊の西壁は一段低くなっており、上部には半円頭形の小さめの窓が開けられている。その左右の小さな窓のすぐ下には、西ファサードの中ほどの高さのところを横に長くコーニスが伸びており、ファサード全体の安定感を生み出している。中央部の下には方形で縦長のいたってシンプルな扉口が開けられている。18世紀の西ファサード改築の際に拡張されたものであるが、その左右(側廊の西端)にある出入口はその際に閉鎖された。向かって右側の出入口は「生者の扉口」と呼ばれ、助修士や一般の信者が出入りした。また向かって左側の出入口は「死者の扉口」と呼ばれた。聖堂北側にある墓地に近く、葬儀の際にはここから遺骸が運び出された。 北側の側廊の外壁には、18世紀に付けられた分厚くて張り出し幅も大きい扶壁が、西ファサードの壁面北側に付けられたものも含めて5つ並んでいる。西から3番目の中央にあるものが特に分厚いものとなっている。東側から見た後陣の姿は、レオンセルの代名詞とも言える光景である。主後陣は東側に大きく張り出した五角形で、中央の東面と南北面の3面に半円頭形の窓が開けられている。主後陣の左右には、それに比べると小さく見える半円形の小後陣が並ぶ。それぞれら中央に、やはり半円頭形で縦長の窓が開けられている。後陣の上の凱旋アーチの壁面には18世紀の大きな丸窓が開けられ、交差部のクーポールの上には、これもまた18世紀に作られた高さ33メートルの方形の鐘塔が立つ。上下2段構えとなっており、下の段には各面に半円頭形のベイ(開口部)が2つ1組で開けられ、その2つのアーチを中央で受け止める小円柱には、方形の冠板と植物文様の柱頭彫刻が付けられている。上の段にはシンプルな半円頭形のベイが1つずつ開けられ、方形の鐘塔の上は八角形の尖塔となっている。さらにその尖塔の上には石造りの組紐彫刻(円形に4つの角が付いており、ロマネスクの装飾ではよく見かけるもの)が据えられている。ただしさほど古いものではない。 身廊は5ベイからなる。天井は太い横断アーチで区切られ、各ベイは4分交差リブ・ヴォールトである。リブは幅のある横断アーチに比べて細くて繊細な印象を受ける。主身廊の南北には、尖頭アーチの連なる大アーケードを介して側廊が付けられている。このアーケードの上には各ベイにおいて、内部に向けて隅切りされ左右を柱頭付きの小円柱にはさまれた半円頭形の窓、すなわちクリアストーリー(高窓)が開けられている。またこのクリアストーリーの壁面も各ベイで尖頭アーチとなっている。大アーケードの各エコワソンからは、シトー派としては珍しいほどの豊穣な植物文様の柱頭彫刻を持つ壁付き小円柱が立ち上がる。そしてさらにその柱頭の上には大きな逆台形の石座(冠板のようにも見える)が付き、横断アーチと各ベイのリブを受け止めている。 身廊から尖頭形アーチの連なるアーケードで隔てられた側廊は13世紀のものである。主身廊と同じく横断アーチで区切られ、大きなコーニス(ただし南北でその幅が異なる)の上に4分の1円筒ヴォールトが架かる。南北それぞれに側壁には尖頭形の壁アーチが並ぶ。側廊には南北ともに窓などの開口部は見られない。 トランセプトの交差部を取り囲む四辺の半円形アーチは、それぞれ四隅の柱に付けられた逆三角形のモディヨンが受け止めている。この交差部の西側のアーチのすぐ上には、三角形のモールディングが見られるが、これは大きな身廊部が建設される前の、古い身廊の天井の切妻壁面の名残である。トランセプトの東は、内部は半円形の(外部は五角形の)主後陣と、その左右には内外ともに半円形の小後陣が付く。主後陣には半ドームが架かる。小後陣(トランセプト南北翼の東の礼拝室)は古い平面プランを忠実に再現する形で18-19世紀に再建された。トランセプト自体は12世紀のもので、天井は半円筒ヴォールトである。交差部の上には四隅の大きなトロンプとそれに受け止められる形で八角形のクーポールが載る。このクーポールの各面の下には四角い小さな受け石が残されている。これはかつてはクーポールの各面の境に付けられていたリブを受けていたものであると思われる。クーポールの東面には大きな丸窓が開けられている。いかにもシトー派らしい仕様であると言えよう。 西田雅嗣(2006)pp.219-224; Aubert(1947)p.73, pp.206-207; Bringuier(1987)pp.27-45; CL, no.9, pp.17-74; Desaye et Peyrard et al.(1976)pp.38-85; Dimier et Porcher(1962)pp.152-158; Eydoux(1978)pp.195-205, p.436; Eydoux(1972)pp.448-453; Flavigny(1989)pp.42-51; Giraud(1988)pp.4-97; Senger(1998)pp.47-55; Tardieu(1980)pp.107-119; Tardieu(1995)pp.59-74; Tardieu(2001)pp.45-74; Vallery-Radot et al.(1966)p.92; Wullschleger(1988a)pp.64-65; Wullschleger(1989b)pp.8-13; Wullschleger(1991a)pp.73-80; Wullschleger(1991b)pp.27-89, pp.94-95, p.105; Wullschleger(1998)pp.74-75; Wullschleger(2001)pp.36-44; Wullschleger(2010)pp.32-35; L'Association des Amis de Léoncel(Web site); Maschio(Web site); RIP; GV. 26.2.15 ル・シャファル/サン=ロベール教会(Église Saint-Robert, Le Chaffal)▲遺構 ル・シャファルは、ヴェルコール山地にあって、行政区分ではすでにディー郡(arrondissement de Die)に入る。レオンセルから県道D70を南へ3キロでル・シャファルのコミューン内のラ・ヴァシュリー(La Vacherie)の集落に入る。村役場を通り過ぎて、さらに3キロ南に行くと、石の台座の上に木製の十字架が立つ小さな交差点に至るので、それを左(東)に折れて狭いダートの山道を800メートルほど進む。すると左手の小丘の上に作業場のような建物が現れる。サン=ロベール教会の遺構は、その建物の裏手の茂みの中に残されている。この聖堂は、もとは12世紀中頃に建てられた小修道院(プリウレ)のもので、オーヴェルニュのラ・シェーズ=デュー修道院の分院であったとされる。その後の歴史についてはあまりよく分からない。側壁の一部と、半円形の後陣、そしてコーニスを介してその上に架かる半ドームがかろうじて残されている。また後陣には半円頭形の窓が2カ所、出入口が1カ所開けられている。後陣および半ドームは、比較的よく切り整えられた石がていねいに積まれている。しかしながら、このままでは時とともに急速に倒壊し消滅してしまう恐れがあると思われる。 Veyrenche(2019)pp.35-38; Wullschleger(1989c)pp.78-80. 26.2.16 オンブレーズ/アンサージュのサント=マリー=マドレーヌ教会 (Église Sainte-Marie-Madeleine d' Ansage, Omblèze) レオンセルから県道D70を南へ13キロ進み、プラン=ドゥ=ベ(Plan-de-Baix)からD578で今度は北へ5キロ行くと岩山の下にホテルやレストランなどがあるル・ムーラン=ドゥ=ラ=ピプ(Le Moulin-de-la-Pipe)という小集落に至る。そこからジェルヴァンヌという渓流を渡って、« Chute de la Druise »と呼ばれる滝の方へD578Aを1.2キロほど南東に進むと道が2つに分かれるので、滝の方ではなく左手に進み150メートルでアンサージュの集落に入る。サント=マリー=マドレーヌ教会(小礼拝堂)は、D578Aから50メートルほど北へ入ったところにある。聖堂の南側は古い墓地となっている。中世にはすぐ隣のアンス(Anse)にあった小修道院(現存せず)に付属するプリウレであった。しかしそれ以外のこの聖堂の歴史についてはよく分からない。最初に建設されたのは12-13世紀頃であったと思われるが、その後さまざまに改修の手が加えられている。 建物は東西に長い長方形で、単身廊に平面形の後陣が付くだけのシンプルな形である。西ファサードには大きな半円頭形の扉口が付き、そのすぐ上にやはり大きな半円頭形の窓が開けられている。切妻形の上部には、これもまた大きくて高さのある鐘楼が立ち上がる。ベイは1つだけで、鐘は失われている。鐘楼の頂部はピラミッド形となっている。墓地に面した身廊部南側の壁面は、不整形の石が荒積みされており、向かって左側(西側)には高さのある半円形のアーチの枠組みが残されている。そのアーチの頂部の要石とその左右の枠石には、大きな文字がいくつか刻まれているが、その意味は不明である。またこのアーチの枠石の内側には方形の小さな窓が開けられており、身廊部には同様の窓が後陣に近いところにも1つ開けられている。身廊の東側に続くのは、身廊よりも南北幅が少し狭くなった方形の後陣で、その南壁には半円頭形で小さな窓が開けられている。外側は隅切りされておらず、平らである。この方形の後陣には、東面の壁にも小さな窓が開いている。 内部は、建物全体が半円筒形ヴォールトとなっており、長いトンネルのような印象である。石積みも不整形で平たい石が荒積みされている。横断アーチなどは見られず、したがってベイの区切りもない。南側の側壁の下部には、半円形の壁アーチが2つ並んでいる。アーチの位置が低いことから、かつては身廊の床面がもっと下であったのを、後にかさ上げしたのかも知れない。身廊の北側の側壁には何もない。身廊よりも南北幅が狭くなった後陣(内陣)は、外部と同じく方形で、東壁に直に接する形で石の祭壇が据えられている。南側と東側に開けられた小さな窓は2つとも内部に向けて隅切りされている。この後陣の建物の北側には小さな聖具室があり、その北壁には大きな四角いニッチが付けられている。 アンサージュには、この聖堂から東へ250メートルのところに新しいサント=マルグリット教会(église Sainte-Marguerite)がある。後陣および南北のトランセプトが半円形で三つ葉形となっている。その石積みの様子から一見古いもののように見えるが、実際に建設されたのは19世紀末である。 Couriol(2017)pp.57-64; RIP. 26.2.17 プラン=ドゥ=ベ/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame, Plan-de-Baix) プラン=ドゥ=ベは、ヴェルコール山地の中でも南に位置するが、行政区分はディー郡(arrondissement de Die)に組み入れられており、いわゆるディー地方を意味するディオワ(Diois)に隣接するコミューンの1つである。レオンセルからは県道D70を南へ13キロ、クレからは同じくD70を北へ24キロである。「ロシェ・デュ・ヴェラン」(rocher du Vellan)と呼ばれる大きくて高い岩山の下にプラン=ドゥ=ベの集落が広がっている。ノートル=ダム教会は、集落の中心から南東へ500メートルほど離れたところに建っている(D70から東へ30メートルほど入る)。 11世紀半ばから12世紀前半頃に、クリュニー修道会に所属するサン=マルセル=レ=ソゼ(Saint-Marcel-lès-Sauzet、モンテリマールの北東7キロ)の分院として創建された。17世紀以降19世紀にかけて、数々の改修工事が施されているが、聖堂の基本的な構造と古さを感じさせる外観および内部の様子は、ロマネスク聖堂の面影を今によく伝えるものとなっている。 西ファサードは、二重になった半円形のヴシュール(アーチ)の下に開く扉口と、その左右に付けられた半円形のニッチのアーチが3つ横一列に並んでいる。この3つのアーチは横幅も高さもほぼ同じである。中央の扉口では、半円形のヴシュール(アーチ)はインポストの上に架けられている(向かって右側の壁アーチも同じ)。また扉口のヴシュールの内側のアーチは、クラヴォー(組石)が白と黒の石の交互の組み合わせになっており、とりわけ向かって右側のインポストのすぐ上の部分でそれがはっきりと分かる。扉口の真上には大きな丸窓が開けられ、ファサード上部は三角形の切妻である。西ファサードの向かって左端(北側)は、そのまま扶壁となって外に向けて張り出している。この西ファサードと身廊の北壁は、屋根に近い上部を除いて、共に整形された中石材が比較的整然と積まれている。北壁には東西の端に、半円頭形の窓が開けられている。身廊の南側には住居が直接建てられていて(かつてのプリウレの建物であろうか)、その壁面を見ることはできない。後陣は半円形で、中央(東端)に半円頭形の窓が開けられている。トランセプトのうち、北側のものは失われている。かつてはトランセプトの両翼のそれぞれ西壁に、身廊と行き来するための縦に細長い半円頭形の通路が開けられていた。こうした通路は「ベリション」(berrichon)と呼ばれ、主にベリー地方でよく見かけるとされるものである。南翼の「ベリション」は今は埋められているが、北翼のそれは、外部に残されているのを見ることができる(ただし中を通ることはできない)。後陣とトランセプト南翼は、外部がコンクリートで上塗りされていて、壁面自体に古さは感じられない。交差部の上には19世紀に作られた方形の鐘楼が立っており、その各面には縦長で半円頭形のベイが開いている。 内部は南北幅の広い身廊と、その奥に狭い内陣が続いている。12世紀初め頃に作られたと思われる身廊は3ベイからなり、側壁には各ベイに半円形の壁アーチが付けられ、石積みがはっきりと分かる壁面になっている。それに対して天井は、かつてはおそらく木造屋根であったが、17世紀半ばに石のヴォールトに架け替えられ、しかも現在は漆喰で上塗りされている。天井に横断アーチは見られない。身廊北壁の左右両端のベイに開けられた半円頭形の窓は、内部に向けて大きく隅切りされている。一方、身廊南壁には窓はないが、東端のベイに、隣に建てられている住居との間を行き来するための出入口が開けられている。 大理石製の祭壇が置かれた横幅の狭い内陣は、そのままトランセプトの交差部となっている。交差部及び後陣部分は11世紀末頃から12世紀にかけてのもので、身廊部分よりも少し古い。保存されている壁面の石積みの様子からもその古さがよく伝わってくる光景である。交差部の南北の壁には二重になった半円アーチがかけられている。ただしトランセプトの北翼は失われており、壁面は埋められている。南翼は聖具室となっている。後陣の中央には半円頭形の大きな窓が開いている。その窓の向かって左側にもかつての窓らしきものの痕跡が残されている。後陣の上は半ドームである。交差部の上には四隅に小さな半円形のトロンプがあり、さらにその上のゆるい八角形のクーポールを受け止めている。このクーポールは17世紀に改修の手が加えられたものであるとも言われる。 Barruol(1992)pp.401-402; Desaye(1989)p.66; SAF(1999)no.12, pp.131-132; RIP. 26.2.18 ジゴール=エ=ロズロン/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Gigors-et-Lozeron) クレ(Crest)から県道D731を北上すると16キロ、D70を北上してボーフォール=シュル=ジェルヴァンヌを経由し、D732を西に進むコースだと20キロでジゴール=エ=ロズロンのコミューンのジゴールの集落に至る。サン=ピエール教会は、この集落から南へ400メートル離れた標高550メートルの見晴らしの良い小丘の上に建っている。1948年に近くの農家で見つかった11世紀末から12世紀初めにかけてのものとみられる碑文がこの聖堂の建設者の名前を記しており、それによると領主ベランジェ(Bérenger)によって建設が始められ、彼の死後はその息子であるイルパン(Irpin)が引き継いだという。実際に建設されたのは、建築様式の特徴などから、12世紀前半から中頃にかけてのこととされる。1169年には、ここはクリュニー傘下の小修道院(プリウレ)となっていた(J. Morelは、最初ここはレオンセルの分院であったとしている)。規模が小さいこともあって、13-14世紀にはせいぜい数人の修道士がいるだけであった。15世紀にはさらに衰退が続き、14世紀以来同じクリュニー修道会の傘下にあったラグラン小修道院(prieuré de Lagrand、現在のオート=アルプ県)の管理下に置かれることになった。しかし宗教戦争の混乱がさらに追い打ちをかけ、荒廃と廃墟化が進んだ。ようやく17世紀後半から内陣部分などの再建が始まり、19世紀には身廊が修復された。それ以後も今日に至るまで部分的な修復の手が加えられている。 基本的な平面プランはラテン十字形で、3ベイからなる単身廊にトランセプトと後陣が続く。量塊感のある西ファサードは、上部が切妻で、そのすぐ下に隅切りされた半円頭形の窓、水平のコーニス、そして一番下に二重のアーチ(ヴシュール)が架かる半円頭形の扉口が開く。このアーチは近年になって新しく修復されている。西ファサードの向かって右下部分には小さな扶壁が手前に張り出す形で斜めに付けられている。一方、向かって左側にも、やはり同様の小さな扶壁が見られるが、さらにその左側に大きく壁面が連続している。これは一見すると側廊の西端の壁面のようでもあるが、実際は幅のある南北4メートルあまりの大きな扶壁が北に張り出しているのである。この扶壁は近代になってから作られたもので、12世紀のオリジナルのものではない。そこまで大きくはないが、最近まで身廊部の南北の側壁にやはり近代になってからの扶壁が付けられていた。これは現在は撤去されている。 身廊北側にはトランセプトの北翼に接する形で、方形の鐘塔が丘の隆起部分の上から立ち上がる。下の基壇部分を入れると、コーニスで区切られた3つの段に分けられ、最上段にのみ各面に尖頭形のベイが開けられている。ただしこの鐘塔は15世紀から16世紀初め頃(あるいは17世紀)にかけてのもので、もともとのロマネスク期の鐘塔は、交差部の上に建てられていた。身廊の南側の側壁には、聖堂内部に3つある各ベイに対応して半円頭形のごく小さな窓が1つずつ開けられている。またトランセプト南翼の南壁の上部にも内部に向けて隅切りされた小さな窓が開けられている。このトランセプト南翼の西側の壁面には、今は埋められているが半円頭形の出入口のアーチが残されている。かつて聖堂の南側にあった修道院の建物(16世紀の宗教戦争の際に破壊)や今も残る墓地に通じていた。 聖堂東側から見た後陣およびその両側に並ぶ小後陣の姿が、ロマネスク期の雰囲気を今によく伝えるものとなっている。丘の上に立ち上がる半円形の主後陣は、屋根まで達する幅のある方形の扶壁が2つ付けられているために、非常に強固で厳めしい印象を与える。2つの扶壁の間の中央部分には、12世紀のオリジナルのものよりも大きく拡張された半円頭形の窓が開いている。左右の小後陣の半円頭形の窓はそれとは対照的に小さい。また後陣の上の凱旋アーチの壁(身廊部の壁面から少し東に張り出している)には小さな丸窓が開けられている。 聖堂内部は、3ベイからなる単身廊形式で、その東側にトランセプトと後陣が続くが、西から石段を少しずつ登るようにして後陣部まで床面が次第に高くなっていく。身廊部の天井は1870年代に再建されたものである。天井は半円筒形トンネル・ヴォールトで、各ベイの間に厚みのない半円形の横断アーチが架かる。側壁は半円形の壁アーチが並ぶアーケードとなっている。正方形の交差部は各辺を二重になった大きな半円アーチで囲まれている。交差部の天井は、現在はリブのない交差ヴォールトであるが、これはおそらくは17世紀頃のもので、もともとはトロンプに受け止められたクーポールが載り、さらにその上に鐘塔が建てられていたと思われる。主後陣は半円形で、中央に半円頭形の大きな窓が開けられている。その窓に遮られる形ではあるが、水平のコーニスが巡り、その上に半ドームが架かる。この半ドームは1610年頃に再建されたものではないかと考えられている。左右の小後陣もやはり半円形で半ドームが架かる。 なおこの聖堂は、西ファサードの扉口などは比較的最近まで修復の手が加えられてはいるが、しかし筆者が訪れた2019年の時点で、主後陣の南側壁面および南側の小後陣の壁面において、組石が墜ちたり壁に亀裂が入ったりして傷みが進んでいる。そうした部分についてもなるべく早く適切な修復保存が行われるべきであろう。 Barruol(1992)pp.380-393; Brun-Durand(1891)p.160; Desaye(1985)pp.229-244; Desaye et Couriol(1989b)p.63; Morel(2007)p.52; SAF(1999)no.12, pp.93-94; RIP. 26.2.19a モンクラール=シュル=ジェルヴァンヌ/サン=マルセル教会 (Église Saint-Marcel, Montclar-sur-Gervanne) クレ(Crest)から県道D70に入って北へ4キロ進み、さらにD577に入って2キロである。サン=マルセル教会は、ジェルヴァンヌ渓谷とヴェルコールの丘陵地帯を見渡す小山の上に建っている。モンクラール=シュル=ジェルヴァンヌの集落はこの小山の麓にあって、村役場の前から坂道を約300メートル登るとサン=マルセル教会である。5世紀のディー司教である聖マルセル(没年は510年)の名を冠したこの聖堂は、12世紀後半にやはりこの場所にあった城塞の教会として建設された。この城塞と聖堂は、最初はディー司教の管理のもとにあったが、1201年にドファン・ドゥ・ヴィエノワに譲られた。現在、城塞の方は破壊されてわずかな遺構(壁の一部など)が残るのみである。 サン=マルセル教会の平面プランはラテン十字形で、単身廊にトランセプトと後陣が続く。西ファサードは17世紀後半に大幅に改修されている。扉口は長いクラヴォーが並ぶ尖頭形のヴシュールの下に開く。このヴシュールのすぐ上には水平に伸びるモールディングが残されており、おなじモールディングの石がヴシュールの左右の起拱点に、インポストのようにして付けられている。また扉口の左右の側柱の基壇部分には、線刻の施された古い石が再利用されている。扉口の上には外側に向けて大きく隅切りされた半円頭形の窓が開けられているが、これは新しいものである。その窓のすぐ上には、1686年に司祭J.F.Lagierのもとで改修工事が行われたと記された古い銘板が埋め込まれている。 身廊の外壁は、南側においては壁面の中ほどより少し高い位置まで達する扶壁が2つ付けられている。トランセプト南翼のすぐ近くにごく小さな方形の窓が開けられている。一方、北側においては扶壁や窓はまったくない。その代わりに近代になって方形の聖具室が増築されている。聖具室の外側から鐘楼に登るために埋め込まれた足を乗せる石が身廊外壁に並んでいるのが見える。またその聖具室の西側には小さな墓地スペースが作られている。そこには、ここから2キロ南にあるヴァシェール城(Château de Vachères)の所有者である La Bretonnière一族の19世紀の墓が並んでいるが、かなり長い間放置されているようである。 身廊部の東端の、交差部との間には三角形の頂部を持つ大きめの鐘楼が立っている。鐘を吊すためのベイ(大きさがそれぞれ異なる)が3つ開けられている。そのうちの1つだけに、今でも鐘が吊されている。トランセプトは南翼に、ロマネスク様式の半円頭形の窓が開けられている。その窓の下には、横幅(東西幅)が長くて末広がりの大きな扶壁が付けられている。またこの南翼だけに、屋根のすぐ下にモディヨンの列が並べられている(ただしかなり傷んでいる)。トランセプト北翼の北側の壁には、今は埋められた縦に細長い出入口の名残が見られる。 後陣部は、高さのある主後陣が五角形であるが、上部のコーニスから上は半円形となっている。こうした仕様は珍しいと言える。その南面と中央の東面には、半円頭形で外に向けて隅切りされた窓が開けられている。左右の小後陣は半円形である。北側の小後陣には上の方に半円頭形の窓が開けられている。それに対して南側のそれは、地形的な理由から中ほどの高さまで分厚い扶壁が斜めに付けられていて、半分しかその姿を見ることができない。上の方に開けられている小さな窓は、細長い方形となっている。 聖堂内部は単身廊にトランセプトが付くというラテン十字形である。身廊部はもともとは木組みの天井であったが17世紀の改築の際に半円筒ヴォールトに変えられた。身廊自体にベイの区切りはない。扉口を入ってすぐ右側に、石造りの聖水盤と洗礼槽が残されている。大きな尖頭アーチ壁を隔てて身廊の東に続く交差部は、身廊の南北幅よりも狭くなっている。この尖頭アーチ壁には左右(南北)両端それぞれに、トランセプトと行き来するための狭くて細長い半円頭形の通路が開けられている。「ベリション」と呼ばれる通路で、この近くではプラン=ドゥ=ベ[26.2.17]でも見られるものである。北(左)側のベリションには17世紀に石段が付けられ、説教壇に登るようになっている。この北側の「ベリション」のすぐ隣には、小さな方形の通路が開けられて、聖堂北側に増築された聖具室に通じている。 交差部には彩色された祭壇が置かれ、天井部分には、四隅に縦長であまり目立たないトロンプがあり、さらにその上には水平のコーニスを経て八角形のクーポールが載っている。このクーポールも白く上塗りされているが亀裂が痛々しい。トランセプトは南北両翼とも半円筒ヴォールトが架かる。南翼にのみ隅切りされた半円頭形の窓が開く。北翼には窓はないが、かつて開けられていた縦に細長い出入口の痕跡が残されている。 主後陣は外部と同様に内部においても五角形で、トランセプトから続く赤く彩色された水平のコーニスの上にやはり五面からなるドームが載る。このコーニスから上の部分は、主後陣と左右の小後陣ともに、白く上塗りされている。主後陣には南面と中央に窓が開けられているが、そのうち中央(東端)のものは、内部に向けて隅切りされ、二重のアーチで枠組みされた半円頭形の窓が開けられており、外側のアーチは、かつては左右で小円柱が受け止めていたが、今ではその小円柱は失われ、左右ともチェック柄(damier)の装飾が彫刻された冠板のみが残されている。左右の小後陣は半円形で、それぞれ円筒ヴォールトが架けられ、さらに内側が半円頭形となった窓が開けられている。またそれぞれにやはり彩色された祭壇が置かれている。 モンクラール=シュル=ジェルヴァンヌのサン=マルセル教会は、今では信者席はすべて撤去され、壁面の塗装も部分的に剥落するなど使用感がなく、長い間放置されたままのようである。聖具室などは現在は完全に単なる物置となって荒れ放題である。周囲のパノラマを見渡す小山の上のその孤高な姿は、遠くからでもよく見える。貴重な歴史遺産であると同時に、展覧会やコンサートなどの文化イベントなどに利用したり、あるいは観光遺産としてもさまざまに有意義な活用が可能なのではあるまいか。今後の修復とより良き保存・維持の道が探られるべきであると考える。 Barruol(1992)p.399; Desaye et Couriol(1989c)p.67; Mayer(2008)pp.109-111; RIP. 26.2.19b モンクラール=シュル=ジェルヴァンヌ/ヴォジュラスのサン=ジャック=エ=サン=フィリップ教会 (Église Saint-Jacques et Saint-Philippe de Vaugelas, Montclar-sur-Gervanne) ヴォジュラス(またはヴォジュラ)のサン=ジャック=エ=サン=フィリップ教会は、モンクラール=シュル=ジェルヴァンヌのサン=マルセル教会から県道D240を北東へ約3キロである。ヴォジュラスの集落のほぼ中ほどに、墓地に囲まれて建っている。最初の建設は12世紀初め頃と思われるが、史料に最初にその名が現れるのは1509年になってからのことである。宗教戦争によってもあまり被害は受けなかったようであるが、後の時代の改修の手はさまざまに加えられている。また身廊の北側の外壁を除いて聖堂全体に19世紀頃の上塗りが施されている。 西ファサードはシンプルである。半円頭形の扉口は近代になって付けられたもので、その上に丸窓が開けられている。斜面に建てられているという地形上の理由から、西ファサードの向かって右側(南側)には非常に分厚い扶壁が付けられている。同じ扶壁はやはり身廊部南壁の中央にも付けられている。この身廊南壁には扶壁の間に半円頭形の大きな窓が2つ開けられている。やはり身廊南壁の、後陣のすぐ西側には12世紀の方形の鐘塔が立っている。その各面には2つないし3つの半円頭形の細長い窓が開けられている(上から2段目のものは各面ですべてニッチとなっている)。東側の上段には丸い時計が付けられている。また鐘塔の塔頂部には頭部が三角形の小さな鐘楼が乗せられている。後陣は半円形である。土台部分に不整形の石積みが露出している。南側には方形の窓が開けられている。 聖堂内部は3ベイからなる幅の狭い単身廊で、半円形の後陣が東端に付く。天井は水平のコーニスの上に半円筒ヴォールトが架けられている。身廊の各ベイは半円形の横断アーチとそれを受ける壁付きのピラストルによって区切られている。堂内の壁面は、ほとんどすべて白く上塗りされている。 Desaye et Couriol(1989d)p.66; RIP. 26.2.20a シューズ/サン=マルタン教会(Église Saint-Martin, Suze)遺構 クレ(Crest)から県道D93でドローム川北岸を東へ6.5キロ行き、D70に入って北へ2キロ進んだところでD70Aが分かれるので、それをさらに北へ6キロである。最後の1キロは、D70Aから外れて、12世紀の城塞の遺構が頂上に残るサン=パンクラス山へと向かう。その山の中腹にある古いヴュー・シューズ(Vieux Suze)の集落の中ほどに、サン=マルタン教会の遺構とその鐘楼が残されている。集落を貫く道路から石段を登るとサン=マルタンの西ファサードの前に出る。 正確な建設年代やその後の歴史についてはあまりよく分からない。建物は12世紀後半から13世紀頃のものと思われる。聖堂の向きは少し東西方向からずれている。小さな単身廊形式で半円形の後陣が付く。この後陣は外部は不整形の石が荒積みされており、南側に半円頭形のロマネスク様式の窓が1つ開けられている。後陣の北側は失われている。内部のヴォールトも失われており、残された身廊と後陣の壁面内部はすべて黄色く上塗りされている。身廊の北側には遠くからもよく見える鐘楼が立つ。その頂部は三角形で鐘を吊すベイが2つ開けられており、そのベイのすぐ上には時計が付いている(針は残っているが動いてはいない)。身廊の南側に小さな側室があって、内部は彩色されて比較的よく保存されているが、普段使用されているという印象ではない。 ヴュー・シューズの上の山頂にある城塞(遺構のみ)は1163年に史料にその名が現れる。ディー司教の支配下にあったが、その後ヴァランティノワ伯がその近くに新たに自身の城を建設した(現在は私有地)。この集落は19世紀が終わる頃には住む人も少なくなったようであるが、20世紀後半から次第に民家が再生し、今日に至っている。 ヴュー・シューズから直線距離で東へ約1キロのところに、12世紀にはサン=ローマン小修道院(prieuré Saint-Romain)があった。ここから約10キロ南のピエグロ=ラ=クラストルのサン=メダール修道院(Saint-Médard de Piégros-la-Clastre)の分院であったが、宗教戦争の際に破壊されてしまった。今はその場所は墓地となっており、かつての付属教会の半円形後陣の土台部分が、その墓地の東側の壁の外側に張り出す形でかろうじて残されている。 またヴュー・シューズから3キロほどサン=パンクラスの山の中を北へ歩いて行くと、その山の北端部に同名の小さなサン=パンクラス礼拝堂(chapelle Saint-Pancrace)がある。その建設時期は不明である。 RIP. 26.2.20b シューズ/ショセオンのサン=ジャン=バティスト教会 (Église Saint-Jean-Baptiste de Chosséon, Suze) ヴュー・シューズの集落から直線距離にして南へ約3キロである。クレから来ると県道D70からヴュー・シューズへ向かうD70Aに入る。700メートルで« Chosséon »と書かれた標識が現れるので、それを西に向かい1.4キロほど行くとショセオンの小集落に至る。サン=ジャン=バティスト教会はその小集落の中央に建っている。ここにはかつて、ベネディクト派すなわちクリュニー修道会のラグラン小修道院(今のオート=アルプ県)に属する分院があった。現在、聖堂の北側と西側は墓地となっており、南側には住居が接続している。扉口が開いているのは東側のファサードであるが、その様子からはさほど古さは感じられない。一方、墓地に面した西側、すなわち今の後陣側は壁面が平面形となっており、三角形の切妻の下に大きな半円形の壁アーチが付けられている。アーチを受け止める左右の側壁にはインポストが組み込まれている。このアーチ自体はニッチであるが、壁面は中石材がきっちりと積まれたもので、中央下部にかつて開けられていた扉口のアーチの痕跡が残されている(16世紀前半に埋められたようである)。切妻の上には鐘が吊されたベイが1つ開けられた鐘楼が立っている。この聖堂が建設された正確な時期は知られていないが、11世紀末には史料にその名が見えるので、ロマネスクとしても古い部類には入る。ただし後の時代に改築の手がかなり加えられている。 Brun-Durand(1891)p.88, GV. 26.2.21 コボンヌ/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Cobonne) コボンヌは、クレのほぼ北に位置する。クレからは県道D93でアオスト=シュル=シーまで行き、そこからD731で北へ6キロである。サン=ピエール教会はコボンヌの集落の北の端に建っている。この場所には、11世紀にはすでに城塞があったが(現存せず)、サン=ピエール教会はその城塞教会として11世紀末頃から12世紀前半頃にかけて建設された。またジゴールのサン=ピエール小修道院[26.2.18]の管理下に置かれていたので、つまりはクリュニー修道会の傘下にあったことになる。コボンヌは14世紀以来、モントワゾンのクレルモン一族の支配地となるが、その同じ14世紀に集落(聖堂がある北の部分)は城壁で囲まれた。その際にサン=ピエール教会の後陣部分が(あるいはトランセプトとともに)取り壊されて、そこに大きな円塔(donjon)が建設された。城壁はこの大きな円塔の他に8つの塔を備えていたが、中でもこの大きな円塔は、おそらくは宗教戦争期に破壊されて部分的に失われてはいるものの、今でもサン=ピエール教会のすぐ隣にその大きな姿をとどめて立っている。また円塔を建設するために取り壊されたサン=ピエールの古い後陣の半円形の土台も、現在の聖堂の後陣のすぐ東側に発掘されていて今も見ることができる。聖堂北側の外壁は14世紀の城壁に組み込まれ、やはりそのまま現在に至っている。 サン=ピエール教会の西ファサードには、左右両側に張り出した建物(14-17世紀)があるが、中央に半円頭形のシンプルな扉口(15-16世紀)が付けられ、その上には半円頭形の窓が開けられている(窓枠は最近のもの)。ファサードの中心軸から少し北側に寄ったところに、頂部が三角形で鐘を吊すベイが1つだけの鐘楼(16世紀)が立っている。身廊の北壁にはまったく開口部がなく、厚さはないが横幅が広くて下に向けて広がるように傾斜した扶壁が付けられている。一方、南壁には身廊部に半円頭形の小さな窓が2つ開けられている。その2つの窓の間には、北壁と同じような横幅の広い傾斜した台形状の扶壁が付けられているが、こちらの方が高さもあり、形もしっかりとしたものである。ただし南北ともにこの扶壁は15世紀以降のものである。身廊の東側には方形の聖具室(15-16世紀)があり、半円頭形の新しい窓が開けられている。その聖具室の北側は古い後陣が切り詰められた後に作られた新しい後陣である。半円形で、上部が斜めに切られている。壁面は不整形の石が荒積みされており、中央には円い窓が開けられている。 聖堂内部は、3ベイ(もとは4ベイ)からなる単身廊で、14世紀に切り詰められた後、15世紀に新たに作られた半円形の小さな後陣が東側に付く(ただし後陣の再建は17世紀との見方もある)。側壁には半円形の壁アーチが並ぶ。そのアーチの間に付けられた方形のピラストルは、半円筒ヴォールトに架けられた半円形の横断アーチを受け止めている。ヴォールトは黄色いモルタルで上塗りされている。西壁の内側には、内部に向けてきれいな石組みで隅切りされたロマネスク様式の半円頭形の窓が開けられている。反対側の後陣は、身廊に比べてかなり小さいので、その分その上の凱旋アーチは非常に大きな(高低差がある)ものになっている。後陣の両側の壁には水平のコーニスが付けられ、その上に半ドームが載せられている。後陣の中央には、外部が丸く内部が正方形になった小さな窓が開けられている。後陣の南側には四角い聖具室が作られている。また聖堂内には、渦巻き形の植物文様が彫刻された聖水盤が置かれている。 コボンヌは、第二次大戦中の1944年7月に爆撃を受けたこともあって次第に住民が離れ、1945年にはわずか一家族を残すだけとなってしまった。その後1984年になってコボンヌの集落と歴史遺産を保存するための組織« l'Association des Amis du Vieux Cobonne »が創設され、その活動もあって次第に住民が戻ってきた。2020年現在、170人ほどの住民が暮らし、村の学校には20人の子供たちが在籍しているという。 Barruol(1992)pp.396-397; Brun-Durand(1891)p.94; Desaye et Couriol(1989a)p.63; SAF(2000)no.13, pp.77-78; Site officiel de la Mairie de Cobonne(Web site); RIP. 略記号と参考文献 (各聖堂のビブリオグラフィーでは、文献などは和書、欧文文献、Web siteの順に、またGVとRIPは最後に記した) CAF:Congré archélogique de France. Société française d'archéologie, Paris,. CL:Les Cahiers de Léoncel. L'association les Amis de Léoncel, Valence. GV:Guide de Visite. RIP:Renseignements ou Informations sur Place. SAF:Cahier de la Sauvegarde de l'Art Français. Faton, Paris. 『聖書』新共同訳、日本聖書協会、1987年。 西田雅嗣(2006):『シトー会建築のプロポーション』中央公論美術出版。 Aniel, Jean-Pierre(1983):Les maisons de Chartreux des origines à la Chartreuse de Pavie, Genève, Droz et Paris, Arts et métiers graphiques. Aubert, Marcel(1947):L'architecture cistercienne en France, tome 1, Paris, Éditions d'Art et d'Histoire. Barruol, Guy(1992):Dauphiné roman, La Pierre-qui-Vire, Zodiaque. Besset, Louis(1858):« Notice sur la petite chartreuse de Bouvantes-le-Bas », in CAF, pp.282-287. Bringuier, Philippe(1987):« À la recherche de l'abbaye dans la plaine romanaise », in CL, no.3, pp.27-45. Brun-Durand, J.(1891):Dictionnaire topographique du département de la Drôme, Paris, Imprimerie nationale. Carlier, Patricia et Morin, Elisabeth(1989):« Meymans de Beauregard-Baret, Sainte-Anne» in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.37. Carlier, Patricia, Morin, Elisabeth, Guérin, Armand(1989):« Saint-Martin-d'Hostun, Saint-Martin » in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.36. Carlier, Patricia, Morin, Elisabeth, Morin, Frédéric(1989):« Jaillans, Sainte-Marie » in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.36. Couriol, Jean-Noël(2017):« Les chapelles du Pays de Gervanne » in CL, no.27, pp.57-64. Derbier, Alain et Meunier, Roland(1988):« La Chartreuse du Val Sainte-Marie », in CL, no.4, pp.22-33. Desaye, Henri(1985):« L'église Saint Pierre de Gigors », in Revue Drômoise, no.435, pp.229-244. ―――――(1989):« Plan-de-Baix, Notre-Dame », in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.66. Desaye, Henri et Couriol, Jean-Noël(1989a):« Cobonne, Saint-Pierre », in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.63. ―――――(1989b):« Gigors, Saint-Pierre », in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.63. ―――――(1989c):« Montclar, Saint-Marcel », in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.67. ―――――(1989d):« Montclar-Vaugelas, Saints-Jacques-et-Philippe », in La Drôme romane, Ferrier et al.(1989), p.66. Desaye, Henri et Peyrard, Maurice, et al.(1976):Architecture religieuse dans la Drôme, Études Drômoises, numéro spécial, Valence, L'Association universitaire d'Études Drômoises. Dimier, Marie-Anselme et Jean Porcher(1962):L'art cistercien, France, La Pierre-qui-Vire, Zodiaque. Eydoux, Henri-Paul(1972):« Église cistercienne de Léoncel », in CAF, no.130, Dauphiné, pp.448-453. ―――――(1978):Monuments méconnus; Provence, Paris, Librairie Académique Perrin. Ferrier, Robert et al.(1989):La Drôme romane, Taulignan, Plein-Centre Éditions. Flavigny, Francesco(1989):« La construction de l'église abbatiale de Léoncel », in CL, no.5, pp.42-51. Giraud, Marie Françoise(1988):Léoncel, abbaye cistercienne, Saint-Jean-en-Royans. Mayer, Jannie(2008):« Montclar-sur-Gervanne », in SAF, no.21, pp.109-111. Morel, Jacques(2007):Guide des Abbayes et Prieurés en région Rhône-Alpes, Lyon, Éditions Autre Vue. Senger, Gérard(1998):« À propos de l'instaration de la commende à Léoncel en 1681 », in CL, no.14, pp.47-55. Tardieu, Joëlle(1980):« Léoncel, un carrefour d'influences artistiques », in Revue Drômoise, no.416, Cîteaux dans la Drôme, pp.107-120. ―――――(1995):« Les cisterciens de Léoncel et les fermiers da la Grandgrange au XVIIIe siècle », in CL, no.12, pp.59-74. ―――――(2001):« Réformes relisieuses et architectures autour de la règle de saint Benoît », in CL, no.17, pp.45-74. Vallery-Radot, Jean, et al.(1966):Dictionnaire des Églises de France, IID, Alpes, Provence, Corse, Paris, Robert Laffont. Veyrenche, Yannick(2019):« Un petit prieuré casadéen de moyenne montagne et son environnement aux XIIIe et XIVe siècles:Le Chaffal », in CL, no.29, pp.35-59. Vialettes, Madeleine(2002):« La courerie de la chartreuse du Val Sainte-Marie à Bouvante », in Documents d'Archéologie en Rhône-Alpes et en Auvergne(DARA), no.23, pp.173-176. ―――――(2003):« La courerie de la chartreuse du Val Sainte-Marie à Bouvante(Drôme)», in CL, no.18, pp.70-84. Wullschleger, Michel(1988a):« Cisterciens de Léoncel et Chartreux de Bouvante:le partage de 1190-92 », in CL, no.4, pp.43-52. ―――――(1988b):« L'accord de 1196 entre Cisterciens de Léoncel et Chartreux de Bouvante (traduction par Michel Wullschleger)», in CL, no.4, pp.62-68. ―――――(1989a):« Léoncel, Abbaye Notre-Dame », in La Drôme romane, et al.(1989), pp.64-65. ―――――(1989b):« Les cisterciens de Léoncel dans la plaine de Valence », in Édudes Drômoise, no.4, pp.8-13. ―――――(1989c):« Marche commentée de Plan-de-Baix à Léoncel », in CL, no.5, pp.75-81. ―――――(1991a):« Les cisterciens de Léoncel sur le plateau d'Ambel au XIIIe siècle », in CL, no.08, pp.73-80. ―――――(1991b):dir., Léoncel, une abbaye cistercienne en Vercors, Les amis de Léoncel, Valence. ―――――(1998):« Léoncel, abbaye de montagne », in Les dossiers d'archéologie, no.234, pp.74-75. ―――――(2001):« Éclairages donnés par les chartes des XIIe et XIIIe siècle sur la vie religieuse à Léoncel », in CL, no.17, pp.36-44. ―――――(2003):« À propos des sources de l'histoire de la Chartreuse de Bouvante », in CL, no.18, pp.2-15. ―――――(2010):« Léoncel, la renaissance d'une abbaye oubliée », in La Revue des Vieilles Maisons Françaises(VMF), no.233, pp.32-35. Web site L'Association des Amis de Léoncel. (https://www.les-amis-de-leoncel.com/ 2021.12.1 アクセス) Jean-Pierre Maschio, Histoires de bornes...ou les victimes de l'ignorance. (http://shadow.chez.com.chez.com/Pdf/Bornes.pdf 2021.10.1 アクセス) Site officiel de la Mairie de Cobonne. (https://www.mairiedecobonne.fr/ 2021年12.1アクセス) |
ドローム県中部の中世ロマネスク聖堂に戻る |