南フランス・ドローム県中部の中世ロマネスク聖堂(1)ヴァランス周辺からヴェルコール山地へ
(シャトーヌフ=シュル=イゼールからヴァランスとその周辺まで)
『文明研究』(東海大学文明学会)第39号、2021年3月
26.2 ヴァランス周辺からヴェルコール山地へ 26.2.1 シャトーヌフ=シュル=イゼール/ヴェルネゾン女子修道院 (Abbaye de Vernaison, Châteauneuf-sur-Isère)遺構 ロマン=シュル=イゼール(Romans-sur-Isère)のサン=バルナール・コレジアル教会からイゼール川を渡って南へ1.2キロで県道D2532Nに合流する。それを1キロほど進んだところで北へ向かう県道D196に入る。さらに600メートルほど行くと右(北)に分かれる細い道があるので、それをイゼール川沿いに約1.5キロ進むと旧ヴェルネゾン女子修道院の敷地に至る。ロマン=シュル=イゼールのコレジアルから直線距離にして南西へ約3キロの、イゼール川左岸(南岸)の川岸に近いところである。ヴァランスからだと北東へ約19キロである。現在この場所は大きな農家の敷地(私有地)となっており、修道院の遺構もその中にあるため外からはまったく見ることができない。 11世紀、このあたりはイゼール川をローヌ方面(西)に少し行ったところにあるシャトーヌフ=シュル=イゼール(Châteauneuf-sur -Isère)の領主一族が支配する土地であった。この一族は、グルノーブル司教である聖ユーグ(Saint Hugues de Grenoble, 1053 -1132)や、その甥で同名のボンヌヴォーのユーグ(Hugues de Bonnevaux/Hugues de Châteauneuf, 1120-1194)などを輩出する有力領主であった。特に後者のユーグは、シトー修道会に属するレオンセル修道院の院長(1161-1166)やボンヌヴォー修道院の院長(1166-1194)を歴任している。12世紀になって、この一族のレーモン(Raymond de Châteauneuf)が、シャトーヌフからおよそ5キロばかり東のイゼール川右岸(後に« Le Monastier Vieux »と呼ばれる場所)に、コミエ女子修道院(monastère de Commiers)を創建した。1150年あるいは1165年頃のことと伝えられる。レーモンはグルノーブルの聖ユーグの兄弟または甥とされ、ボンヌヴォーのユーグの父にあたる。さらにこのレーモンの孫でレオンセル修道院長ボンヌヴォーのユーグの姪にもあたるヴィエルナ(Vierna)が院長となった時に、そのユーグから、シトー修道会に加わることを勧められ、1185年からコミエ女子修道院はシトー修道会傘下の女子修道院となった(公式にシトー修道会として認められたのは1221年以降であるとも言われる)。 1220年に、コミエ女子修道院はイゼール川の度重なる氾濫などもあって、イゼール川左岸の現在のヴェルネゾン地区に移転した。それ以来、この女子修道院はヴェルネゾン修道院と呼ばれるようになる(もともとこの修道院は正式には« monastère »であったが、この世紀中に« abbaye »となっている)。ヴェルネゾンへの移転後も引き続きシャトーヌフ家からの財政支援(寄進)などを受け、さらにヴァランティノワ伯(comte de Valentinois)やドファン・ドゥ・ヴィエノワ(Dauphin de Viennois)などの庇護を受けた。また同じシトー修道会のレオンセル修道院から、修道生活や修道院の運営・管理などについての指導を受けている。レオンセルの修道院長は、ヴェルネゾンの指導司祭(père immédiat)でもあった。13世紀、ヴェルネゾン修道院の修道女の定員は30名で、近隣地域の中小領主の娘たちが多かったと言われている。ただし13世紀後半になると、修道女の数は減少に転じている。もともとヴェルネゾン修道院は、立地していた司教区の関係からヴァランス司教の監督下にあったが、シャトーヌフの領地も1290年頃にはヴァランス司教が獲得している。14世紀は、ひどい飢饉やペストの流行、そして百年戦争期の傭兵部隊の跋扈など多難な時代であった。1389-1390年にはRaymond de Turenneによってレオンセル修道院がひどい略奪を受けている。こうした状況の中、14世紀終わり頃にはレオンセルとヴェルネゾンの2つの修道院の合併が企てられるが、これは実現しなかった。ヴェルネゾンは16世紀になると、火災に遭ったり(1520年)、さらには宗教戦争に際してユグノーの攻撃にさらされるなどしている(1577年)。 17世紀に入ると、1614年頃から女子修道院再建のためにヴァランスへの移転の話が進められ、1616年10月に引っ越しが行われた。ヴェルネゾンからヴァランスまで、4隻の船で人や荷物の運搬が行われたという(ただしY. Veyrencheは、実際の移転を1636年のこととしている)。残されたヴェルネゾンの建物は、その後はヴァランスに移った修道女たちが夏に滞在するための居館となった。1720年のペスト流行の際には旧ヴェルネゾン修道院の建物は隔離施設として使用され、毛織物などの消毒もそこで行われている。一方ヴァランスに移転した新しいヴェルネゾン女子修道院は、18世紀中に王立修道院(abbaye royale)となり、修道院長は国王が任命した。1789年のフランス革命の際には11名の修道女がいたというが、1791年には修道院は廃止となり、他の多くの宗教施設と同様に建物は没収され、兵舎として使用されるなどした後、売却された。現在はヴァランスの裁判所(palais de justice)となっており、南側の壁が革命以前のヴェルネゾン女子修道院時代の建物の名残を残している。一方、イゼール川沿いの旧ヴェルネゾン修道院の施設の方は、ブール=ドゥ=ペアージュ(Bourg-de-Péage、ロマン=シュル=イゼールの対岸)の有力者の一族の夏の滞在地となり、聖堂も私的礼拝堂として利用されたりした。その後は農家の所有となり、納屋や倉庫として使用されているが、実際は荒れるがままとなって現在に至っている。 ヴェルネゾンの地に残されている建物は、多くの部分が18世紀のものであるが、後陣など一部は13世紀のものが残っている。シトー派であるため、ロマネスクといっても後期に属し、半ばゴシック様式と混交したものとなっている。聖堂の建築は単身廊形式で、トランセプトと後陣が身廊の東に続く。身廊部の大部分は失われてしまっている。身廊の南北に付けられた方形のトランセプト(翼廊)は、南側のものはやはり失われ、北側のものは倉庫になっている。この北側の翼廊にはかつてあったクロワトルに通じる出入口が開けられている。交差部の東には内陣と五角形の後陣が残り、この部分だけがかつての修道院教会の名残をとどめるものとなっている。内陣部の天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトである。後陣部は、歳月の経過による風化はあるものの、きれいに整形された切石(中石材)がきちんと積まれている。五角形の後陣の内側には、天井部分にゴシック様式のリブが2本架かり、柱頭を介してコーベル状の壁付き円柱がそれを受け止める。後陣の中央の3つの面にはそれぞれ尖頭形の大きな窓が開けられている。北側の窓の下には、農家の所有となってから開けられたと思われる大きな出入口が残されている。現在の状態が続く限り、残された後陣部分も倒壊・消滅の不安が拭えない。歴史的文化財として、しかるべき修復と保存作業が待たれるところである。 Barruol(1992)pp.321-322; Besse(1932)p.121; Bugnazet(2005)pp.97-104; Chevalier(1881)pp.15-24; Ferrier(1980)p.52; Ferrier, et al.(1989)p.35; Framond, M. de(1980)pp.151-154; Veyrenche(1997)pp.5-12; Veyrenche(2002)pp.189-217; Wullschleger(2005)p.125. 26.2.2 アリクサン/サン=ディディエ教会(Église Saint-Didier, Alixan) ロマン=シュル=イゼールから県道D538を南へ約9キロ、ヴァランスからは県道D171を北東へ約13キロである。アリクサンは小丘の上に建つ城と教会を中心に、周壁に守られた住居がそれを取り囲む円形集落であった。外部とは周壁に作られた東のアモン門(Porte d'Amont)と西のアバ門(Porte d'Abas)から出入りした。この周壁は1810年頃にはまだ残っていたが、1840年から順次取り壊しが行われ、今では南西端にマルガの塔(Tour de Margat)の遺構がかろうじて残るだけである。アリクサンの歴史はローマ時代にこの地に人が住み始めた時から始まるが、中世前半についての情報はあまりない。ロマン=シュル=イゼールのサン=バルナール修道院(Sain-Barnard de Romans)の915年のカルテュレール(証書集)に« villa de Alexiano »という名が見られるのが史料における初出である。城は同じく10世紀から、そして11世紀には城と集落を囲む周壁が建設される。1067年からアリクサンはヴァランス司教の所有となった。この時代、ドフィネは法的には神聖ローマ帝国領で、ヴァランス司教も神聖ローマ帝国皇帝に臣従していた。13世紀中頃から14世紀半ばにかけて、利害の反するヴァランス司教とヴァランティノワ伯(comte de Valentinois)の争いが続き(Guerre des Episcopaux)、1347年または1346年にはヴァランティノワ伯エマール(Aymar VI de Poitiers)の軍がアリクサンを攻撃して焼いている。ヴァランス司教は、1349年にドフィネがフランス王領になった後もアリクサンの領主であり続けた。1448年から1450年にかけて王太子ルイ(後のルイ11世)がここに滞在している。アリクサンには、そのすぐ北西の、かつてローマ時代のヴィラがあったところに、12世紀になってシトー修道会のレオンセル修道院がクソー小修道院(Prieuré de Coussaud)を建設していた。城に隣接する城塞教会としてサン=ディディエ教会が建てられたのもの同じ頃であるが、そこにはクソー小修道院から司祭が送られていたという。このクソー小修道院付属教会は教区教会でもあったが、16世紀の宗教戦争の際にプロテスタントの攻撃に遭って破壊されてしまったため、それ以降は城に隣接するサン=ディディエが教区教会となった。17世紀以降は、アリクサンは疫病や自然災害などに悩まされるが、最終的にはフランス革命の波に飲み込まれ、ヴァランス司教の支配も終わりを迎えるとともに、城は売却され後に村役場となった(今は塔の一部が残っている)。 サン=ディディエ教会へは、村役場の下の広場から20世紀初めに造られた大階段を登る。この聖堂は11世紀後半または12世紀に建設された城塞教会であったが、先に述べたように祭式などではクソー小修道院の管理下にあった。史料にその名が最初に見出せるのは1275年である。14世紀の司教と伯の争いの際と、16世紀の宗教戦争の際に被害を受け、そのたびに修復と拡張工事が行われてきた。さまざまに異なる時期の建築部分が混ざり合っていて、全体的にあまり統一感があるとは言えない。北側の壁は、城と教会を取り囲む城壁の一部をなしている。 建物の大部分はゴシック期のものであるが、北側の外壁に残る小石材による石積みと2つのアーチの名残(今は埋められている)、そして西ファサードに開けられた半円頭形のポルタイユ(扉口)がロマネスク期のものである。この西壁のポルタイユ(ポーチを兼ねた方形の小建物の中にある)のアーキヴォルトには一番外側にビレット(ビリット)と呼ばれる繰り形装飾が施され、扉の左右の側柱のコーベル状の柱頭には髪を逆立てて恐ろしい表情をしたライオンの頭が彫刻されている。これは「ヴァランティノワ風のライオン」とも言われ、類似するライオンの柱頭彫刻は、ヴァランスのサン=ジャン教会[26.2.5b]、エトワール=シュル=ローヌのノートル=ダム教会[26.2.7]そしてディー大聖堂(ノートル=ダム司教座聖堂)に見ることができる。ライオンは力を表し、災禍のシンボルであると同時に聖堂の守護者でもある。五角形の後陣はゴシック様式である。各面は扶壁で区切られており、やはりゴシック様式の尖頭形の窓が3つの面に開けられている。南北に長い方形の鐘塔は18世紀頃のもので、その南端にはさらに小さな時計塔が立っている。 聖堂内部は3ベイからなる単身廊形式で、南側に増築された側室(祭室)は14-16世紀にかけてのものである。北西側の南北幅の狭い祭室の壁画は15世紀に描かれたものである。身廊の3つのベイの天井は交差ヴォールト(17-18世紀)で、内陣は交差リブ・ヴォールトとなっており、そのリブが交差する丸い要石にはビレットの縁取りの中に祝福を与えるキリストが彫刻されている。後陣の上に架かる半ドームにも4本のリブが付けられていて、それらのリブはゴシック様式の3つの窓を区切る細長い円柱が受け止めている。なお教会の南側の開けた土地は、1851年までは墓地であったが、村の北東に移転した。東のヴェルコール山地を望むテラスには、聖ヨセフと聖ディディエの2人の聖人の立像が置かれている。そのうちこのアリクサンの教会が捧げられている聖ディディエは、6世紀末のヴィエンヌの司教で、607年頃に現在のサン=ディディエ=シュル=シャラロンヌ(マコンの南約17キロ)で殉教したとされる人物である。 Barruol(1992)p.317; Bois et Burgard(2007)pp.26-27; Couriol(1990)pp.4-13; Ferrier, et al.(1989)p.34; Planchon, et al.(2010)pp.146-148; Vincent(1854)pp.2-20; GV; RIP. 26.2.3 シャルペイ/サン=ディディエ教会(Église Saint-Didier de Saint-Didier, Charpey) ヴァランスから県道D119で東に向かい、モンテリエを経てシャルペイのコミューン内にあるサン=ディディエの集落に至る。ヴァランスからは約16キロである。アリクサンからだと南西へ「サン=ディディエ道路」(Route de Saint-Didier)で約6キロである。サン=ディディエ教会は集落の中心から少しだけ西寄りのところに建っている。 アリクサンと同じく聖ディディエに捧げられたこの聖堂は、建設は12世紀にさかのぼり、1100年の史料(ロマン=シュル=イゼールのサン=バルナール修道院のカルテュレール)にその名が見いだせる。最初はリヨンにあるベネディクト派のイル=バルブ修道院(l'Ile -Barbe de Lyon)に属していたが、後にレオンセル修道院の管理下に移っている。聖堂の建物のうち砂岩で建てられている部分は前者の時代に属し、後者の時代の部分は凝灰岩で建てられている。建物は全体的に後代の改築の手がかなり加えられている。西ファサードは12世紀のもので、中ほどに水平に付けられたコーニス(かなり摩耗している)の下にポルタイユ(扉口)が開く。一番外側を半円形のモールディングに縁取りされた二重の太いアーキヴォルトが架かる。その内側のタンパン部分は無装飾である。ファサードのコーニスの上には、近代になって開けられたと思われる半円頭形の小さめな窓があるが、その左右両側にはそれよりも大きな12世紀の半円アーチの架かる窓の名残が並ぶ。それらのアーチもまた摩耗が激しく、窓自体も今は両方とも埋められている。西ファサードの上部は切妻形である。身廊の外壁には扶壁が並び、トランセプト様に増築された南北の翼廊を経て、東端では平面形の後陣となる。身廊北側の外壁および北側の翼廊の外壁の上部には歯車形のギサギサ装飾が水平に付けられている。南側翼廊と後陣の間には、19世紀の方形の鐘塔が立っていて、上部には丸い時計が置かれ、頭頂部には尖塔が載る。平面形の後陣は近代になって改築されたもので、中央に半円頭形の窓が1つ開けられているだけである。北側翼廊と後陣の間にはやはり近代になって増築された聖具室が大きく張り出している。 聖堂内部は6ベイからなる東西に長い単身廊形式である。水平のコーニスの上には半円筒形トンネル・ヴォールトが架かり、半円形の横断アーチによって区切られている。この横断アーチは、身廊南北にアーケード状に並ぶ半円形の壁アーチの間に付けられた縦長の逆ピラミッド形(逆三角形)コーベルが受け止める。これはシトー派のレオンセル修道院や、エトワール=シュル=ローヌのノートル=ダム教会[26.2.7]などに見られるものである。身廊の6つのベイのうち、東側の2つのベイは、後陣とともに近代になって取り壊され、新しく建て直されたものである。その際、2重のヴシュールからなる古い凱旋アーチ(勝利門アーチ)は残されたが、それを受け止めるピラストル(壁付き柱)の柱頭部分には、さらに古いプレ・ロマネスク期の組み紐模様の彫刻が施された石が再利用されている。 Barruol(1992)p.321; Ferrier, et al.(1989)p.37. 26.2.4 ペリュス/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Peyrus) ヴァランスから県道D68を東へ約20キロでペリュスであるが、サン=ピエール教会は、村の西で県道D102に折れて北へさらに800メートルである。ヴェルコールの山々を背景にして、畑に囲まれた墓地の中にまるで周囲から取り残されたかのように建っている。中世の間はこの場所にペリュスの小集落があり、ここから約3キロ南のシャトードゥブル(Châteaudouble)の領地に属し、ヴァランス司教やヴァランティノワ伯(ポワティエ家)の支配を受けたが、14世紀以降は次々とその所有者が入れ替わり、1550年にはヴァランティノワ伯でもあったポワティエ一族のディアーヌ・ド・ポワティエ(国王アンリ2世の愛妾)が所有者となっている。 サン=ピエール教会は、もともとは古代ローマ時代のヴィラの跡地に、12世紀になってオーヴェルニュのラ・シェーズ=デュー修道院(Abbaye de la Chaise-Dieu)傘下のベネディクト派小修道院(プリウレ)として建設された。その後15世紀にはボーモン=レ=ヴァランス(Beaumont-lès-Valence)の小修道院と統合されている。1695年にペリュスの村の中に新しい聖堂(Église du vœu de Peyrus)が出来るまでは教区教会として使用された。17世紀頃まで、この聖堂は動物の噛み傷を治癒するとされる奇跡の鍵を所有していたという。1670年には実際に狼の被害があり、噛まれた村人たちがこの鍵に頼ったとも伝えられているが、その後の鍵の行方は不明である。1792年には国有財産として売却されペリュスのコミューンの所有となったが、19世紀になってBellon家の資金負担によって修復工事が行われた。 現在残る聖堂は3ベイからなる単身廊形式で、その東側に内陣のベイと半円形の後陣が続く。建設時期によって3つの部分に分けられる。まず最初のフェーズである12世紀のものは、後陣と内陣部分である。中石材(moyen appareil)が積まれているが、後陣部分の特に土台部分と中段部分では不整形の石が組まれている。半円形の後陣の東端にはかつては縦に細長い窓が開けられていたが、現在は埋められてしまっている。彫刻装飾の類いはまったく見られない。第2のフェーズのものは身廊の東側の2つのベイに相当する部分で、12世紀終わりあるいは13世紀前半頃と考えられる。内陣部外壁の南北に付けられた太くて大きな扶壁もその時期のものである。また内陣外壁の南北にはロマネスク様式の半円頭形の窓が開けられており、内部と外部の両方に向けて隅切りされている。内陣のベイの上にはかつては方形の小さな鐘塔が立っていたと思われるが、その代わりに現在は鐘を吊すベイが1つ開けられた細長い鐘楼があるだけである。第3のフェーズのものは、もっと後の近代になってこの土地の凝灰岩を用いて増築された西端のベイと西ファサードである。前者には、北側に方形の扶壁が1つ、南側では三角形で末広がりの扶壁が2つ付けられている。その2つの扶壁の間には小さな半円頭形の窓が開けられている。身廊北側の壁には開口部は見当たらない。西ファサードは水平のコーニスによって2段に分けられていて、上段は三角形の切妻の下に縦長の半円頭形の窓、また下段には中央にシンプルな半円頭形の扉口が付いている。またこのファサードには左右両端に、コーニスのすぐ上まで立ち上がる太くて大きな扶壁が、斜め放射状に付けられているのが特徴である。身廊東端のベイの北側にある翼廊のような祭室は、1886年にこの聖堂を修復したBellon家のために増築された礼拝室である(同家の墓所を兼ねている)。 内部は半円形の横断アーチによって区切られた3ベイからなる単身廊で、水平のコーニスの上に半円筒形トンネル・ヴォールトが架かる。身廊の側壁には東側の2つのベイに半円形の壁アーチが付けられている。内陣および後陣は、身廊の東西軸から少し北側にずれている。そもそも身廊自体、その横軸が東西方向よりもさらに少し南東に傾いたものとなっている。半円形の後陣の上には半ドームが架かる。堂内の壁は、柱やアーチ部分を除いてすべて漆喰で白く上塗りされており(部分的に剥落あり)、彫刻装飾の類いは見られない。 Barruol(1992)pp.326-327; Ferrier, et al.(1989)p.39; Montaud(2019)pp.61-67; Planchon, et al.(2010)pp.481-482; RIP. 26.2.5a ヴァランス/サン=タポリネール大聖堂(La cathédrale Saint-Apollinaire, Valence) ヴァランスは、リヨンから南へ約100キロ、アルルからは北へ約160キロのローヌ川沿いに位置するドローム県の県庁所在地で、現在の人口はおよそ6万5千である。その歴史は古代ローマ時代にさかのぼり、ローヌ川沿いに地中海からリヨン(ルグドゥヌム)をへてガリア北部に向かうルート(アグリッパ街道/voie Agrippa)と、ディーをへてアルプス方面に向かうルートが交わる交通の要所として繁栄した。古代名はヴァレンティア(Valentia)である。南北方向の大通りカルドと東西方向の大通りデクマヌスを基軸としたおよそ30ヘクタールの広さを持つ碁盤目状の都市計画によって建設され、紀元前1世紀後半頃にはフォールム広場や円形劇場、公衆浴場、神殿、市場など、各種の公共建築物を持つ典型的なローマ都市となっていた。また都市を取り囲む城壁も備えていた。さらにローマの植民都市として、東側の郊外にはChabeuil方面に向けて碁盤目状の都市区画の条理(1辺約710メートル)も認められている。 3世紀中頃にはこの地方にもゲルマン民族の移動が波及し、政治的・社会的混乱が続く。それでもキリスト教は着実に広がりを見せ、360年にはヴァランスの初代司教エミリアヌス(Emilianus/Émilien/Aemilianus)の名が現れる。374年にはヴァランスで教会会議が開かれている。5世紀にはブルグント王国、さらに6世紀からはフランク王国(メロヴィング朝およびカロリング朝)のもとで、ヴァランス司教区の司教座都市として存続する。11世紀前半、すなわち1032年(または1033年)からフランク王国分裂後に復興していたブルグント王国(別名アルル王国)が神聖ローマ帝国領となり、ヴァランス司教も神聖ローマ皇帝に臣従することとなった。しかし皇帝の支配権は弱く、ヴァランス周辺からディーにかけての地域、すなわちイゼール川とドローム川にはさまれた地域も、ヴァランティノワ伯(comte de Valentinois)が実質的に支配するところとなっていた。ヴァランティノワ伯は、12世紀からクレ(Crest)を拠点とするようになっていたポワティエ家で、しばしばヴァランス司教との間でドフィネ南部地域の支配を巡って争いを続けた。1276年にはヴァランス司教区とディー司教区が統合され、ヴァランスには引き続きその司教座が置かれた(この状態は1687年まで続いた)。 1349年には現在のドローム県の北半分に相当するドフィネ・デュ・ヴィエノワ(Dauphiné du Viennois)が、領主であったドファン・ドゥ・ヴィエノワのアンベール2世(Humbert II)によってフランス王家に売却・譲渡され、さらにヴァランスからディーにかけてのヴァランティノワ伯領も15世紀前半には王領に編入された。1498年からヴァランティノワは公領に格上げされるとともに、ルイ12世によって、チェーザレ・ボルジアが1504年までの短い間ではあるがヴァランティノワ公(ヴァレンティーノ公)となっている。その後、1548年から1566年までディアーヌ・ド・ポワティエ(国王アンリ2世の愛妾)が領有、さらに1642年からはルイ13世によってモナコ公国のグリマルディ家に与えられた。なおモナコ公がヴァランティノワ公を兼ねるのは、肩書きのみではあるが今日まで引き継がれている。16世紀の宗教戦争の際にはプロテスタント勢力によってヴァランスの街もかなりの被害を受け、サン=タポリネール大聖堂も部分的に破壊されている。17世紀から18世紀にかけて、ヴァランスはローヌ川の重要な渡河地点であるとともに軍隊の駐留基地として軍事的にも重要な役割を果たした。若き日のナポレオン・ボナパルトが下級将校として赴任したのも、ヴァランスのラ・フェール砲兵隊であった(1785年)。フランス革命の後、ローマを追われた教皇ピウス6世は1799年、ヴァランスにおいて亡くなっている。教皇の墓所はローマのサン=ピエトロ大聖堂にあるが、心臓と内臓は今もヴァランスのサン=タポリネール大聖堂に安置されている。 現在のサン=タポリネール大聖堂(司教座聖堂)は、11世紀後半からヴァランス司教ゴンタール(Gontard, 1063-1100)によって、もともとその場所にあったサント=クロワ礼拝堂、サン=シプリアン礼拝堂を取り壊して建設が進められ、1095年に献堂された。献堂式を執り行ったのは、第1回十字軍の遠征を呼びかけるためにクレルモンの教会会議に向かう教皇ウルバヌス2世であった。その際この聖堂が捧げられたのは、聖母、聖コルネイユ(saint Corneille)、聖シプリアン(saint Cyprien)であったが、12世紀になるとそこに5世紀終わりから6世紀初め頃のヴァランスの司教であった聖アポリネール(saint Apollinaire, 492-520)が加えられた。大聖堂は、隣接するノートル=ダム=ラ=ロンド教会(Église Notre-Dame-La-Ronde)、サン=ジャン=レバンゲリスト教会(Église Saint-Jean-l'Evangéliste)、そして洗礼堂を兼ねていたサン=テティエンヌ教会(Église Saint-Etienne)などとともに司教座を取り囲む聖堂グループを形作っていた。現在残っているのはサン=タポリネール大聖堂のみである。 サン=テティエンヌ教会の位置は19世紀と20世紀の発掘によってはっきりしていて、大聖堂の南に接するオルモー広場(place des Ormeaux)の、身廊の西側の3つのベイのすぐ南にあたる場所であった。十字形をしたこのサン=テティエンヌの洗礼堂の建設年代については、1952年と1954年に発掘を行ったA. Blancは、そこで見つかった床モザイク(楽園に流れる4つの川、猛獣にはさまれた大きな角を持つ鹿、カラスに襲われるウサギなど)の分析から、およそ4-5世紀頃と推定したが、P.-A. Févrierなどはむしろそれを11-12世紀のロマネスク期のものとしている。この洗礼堂は宗教戦争の際の1567年に破壊された後、1571年に再建されてしばらく使用されたが、1619年に白色苦行会(Pénitents blancs)に譲渡され、ついには1856年に取り壊されてしまった(現在は路面にその形が分かるように石が埋め込まれている。またA. Blancによって発見された床モザイクは、大聖堂近くのヴァランス美術館Musée de Valenceに展示されている)。この洗礼堂の場所は1999年から2004年まで再度発掘調査が行われて、古い部分は5世紀にまでさかのぼる珍しい浴場施設も発見されている。その時代の司教やその側近たちが洗礼に関連する儀礼に用いたり、あるいは個人的に使ったものではないかとも考えられている。 16世紀の宗教戦争の際には、ヴァランスは1562年と1567年にプロテスタント(ユグノー)勢力の攻撃によって被害を受けた。とりわけアドレ男爵のフランソワ・ドゥ・ボーモン率いるプロテスタント軍による1562年のヴァランス攻略が知られるが、1567年の攻撃の際には、サン=タポリネール大聖堂も後陣の南側を除くかなりの部分や交差部の壁が破壊され、身廊部のヴォールトも崩落した。17世紀に修復工事が進められたが、それはロマネスク期のもとの姿に忠実に行われたため、新しく修復された部分をはっきりと見分けることがなかなかできないほどである。 サン=タポリネール大聖堂は、ドローム県で最もその規模が大きな聖堂であり、またオーヴェルニュの影響を受けたいわゆる「巡礼路教会」でもある。印象的なのは後陣側からの外観で、上下に重なる半円形の主後陣と、下段の周囲にやはり半円形の小祭室が放射状に配された様子は、例えばピュイ=ドゥ=ドーム県のサン=ネクテール教会やオート=ロワール県ブリウドのサン=ジュリアン教会などに典型的に見られるオーヴェルニュ様式の影響を受けたものである。もともとは4つあった放射状祭室のうち、一番南のものは、南側翼廊の東に15世紀になってゴシック様式の方形の建物(1階は礼拝室、2階は集会室)とそれに付随する小円塔が増築されたことによって失われている。放射状祭室と主後陣には屋根のすぐ下に、小モディヨンの列が帯状に巡り、その下にはそれぞれモールディングで縁取りされた半円頭形の大きな窓が開けられている。とりわけ放射状祭室の壁面には、コリント様式の柱頭を持つ壁付き円柱と方形柱(ピラストル)が基壇の上に扶壁として並んでおり、それらの柱頭の上は斜めに切られた大きな法面となっている。 主後陣の上段部ならびに南北のトランセプトの外壁には、ビレット装飾のモールディングにアーキヴォルトを縁取られた半円頭形の窓や三つ葉形の盲アーチなどが並んでいる。またアーキヴォルトを構成するヴシュールは、例えばオーヴェルニュのル・ピュイ大聖堂に見られるような縞模様(多色交互組み)になっている。トランセプト(翼廊部)ではそれらのアーキヴォルトは、それぞれ左右を植物文様の柱頭彫刻を持つ小円柱に受け止められている。また後陣や翼廊のそうした窓やアーチのさらに上には、柱頭彫刻を持った小円柱をはさんで2つ一組となった半円頭形の盲アーチのアーケードが並んでいる(それぞれのアーケード左右端には柱はなく、インポストのみが付けられている)。かつてスタンダールはこうしたアーケード(特にトランセプトのそれ)を見て、まるで古代ローマ時代の円形闘技場のようだと形容している。 トランセプトでは南北両側の壁面も同様の仕様であるが、上部はそれぞれ三角形のペディメントとなっている。南側のペディメントの中央には円形に縁取られた人間の顔の彫刻が埋め込まれている(ただし保存状態は良くない)。また北側の翼廊には後陣の放射状祭室と同じ形の小後陣が東側に付いている。南側のそれは15世紀の礼拝室の増築のために失われている。また南北の翼廊ともに西側に小建築物の中に扉口が開く。身廊の外壁については、特に主身廊部の東半分において、一番上の屋根のすぐ下に、半円形と尖頭形の奥行きのある小ニッチが交互にずらりと帯状に並んでいる。南側の側廊外壁は高さのある扶壁と、やはりビレット装飾のモールディングに縁取られた半円頭形の縦長の窓が交互に並び、中ほどのベイの下には小さな扉口が開いている。小円柱に左右を支えられた縞模様のアーチがその上に架かっており、扉口の上には1095年の献堂について記された碑銘が埋め込まれている。北側の側廊外壁には、北側翼廊の角以外には出入口は見られない。その角部分の上には、近代になって増築された小さな方形の鐘塔が立っている。 大聖堂西端に立ち上がるポーチを兼ねた大きくて高さのある方形の鐘塔は、古い鐘塔が19世紀に落雷によって崩落した後、1862年に新しく建て替えられたものである。ロマネスク期の古い塔は、上下5段構えの方形のもので、各段には小円柱に支えられた半円形のアーチや三つ葉形アーチの架かる開口部、そして盲アーチが並んでいた。19世紀の新しいものは3段構えになっており、最上部は各面が小円柱に支えられた縞模様の3つのアーチの連なり、中段は縦長のロンバルディア帯、下段は小さなニッチの連なりとその下の縞模様のヴシュールに縁取られた細長い半円頭形の窓、そして一番下には、北・南・西面に、大きな扉門が開く。それぞれ左右を3本の細長い小円柱に支えられた3重のアーキヴォルトが架かる。ポーチの東側は聖堂の西ポルタイユとして、タンパンには栄光のキリストの彫刻が置かれている。 大聖堂内部は、主身廊の南北に側廊が付けられた3廊式で、東西は約60メートル、側廊を含めた南北は約17メートルである。主身廊の南北両側には、4面に円柱の付けられたピア(束ね柱)がずらりと並び、東西方向にはそれらのピアが支える半円形のアーチがアーケードとなって側廊との境をなしている。また天井の半円筒形トンネル・ヴォールトには半円形の横断アーチが架けられている。南北の側廊にはそれぞれ外側の壁に方形のピラストルとそこに付けられた円柱が並び、その円柱は反対側(主身廊側)のピアの付け円柱とともに、側廊の小さな横断アーチを受け止める。側廊の各ベイには半円頭形の窓が開き、その天井はリブのない交差ヴォールトとなっている。トランセプトには、南北それぞれに、左右を小円柱にはさまれた半円頭形の窓あるいはニッチが並ぶ。天井は半円筒形ヴォールトである。中央に祭壇が置かれた内陣は8本の円柱に囲まれており、そのうちの1本は古代(3世紀頃)のマイル・ストーンの再利用である。それらの円柱の上には、高さのあるアーチ壁が載り、さらにその上には水平のコーニスをへて5つの半円頭形の窓(やはり左右を小円柱にはさまれている)が並ぶ主後陣上段部となり、そのまま半ドームに連続してゆく。内陣の半円形になった円柱の列の外側は、いわゆる巡礼路教会でよく見かける周歩廊(または後陣回廊/déambulatoire)で、小円柱にはさまれた半円頭形の窓が開く放射状祭室が、現在は3つ並んでいる。後陣の東端の窓は、外枠は半円頭形であるが、内側は尖頭形のランセットが2つ組み合わされ、後陣の他の窓と同じようにステンドグラスがはめられている。なお身廊西端のトリビューンの上に置かれている大オルガンは18世紀半ばのものである。またオルガンは周歩廊南側にも小さなものが据えられている。 大聖堂の内外には数多くの柱頭彫刻が見られる。その数は390とも言われる(もともとは500以上あった)。それらのうち、どれくらいのものがオリジナルのロマネスク期のものであるかということについては議論の余地があるが、いずれにしても注目すべきは、聖堂の外側では南翼廊の西側の外壁に並ぶ2つの窓のうち下のものの左右に付けられた円柱の柱頭、そして聖堂内の身廊南側および南翼廊に並ぶピアや側壁のピラストル、周歩廊(後陣回廊)に並ぶ円柱などに付けられた柱頭である。南翼廊の西側外壁のそれは、向かって左側がライオンと戦うサムソン、右側はトビアと魚である。トビア(トビアス)は、旧約聖書続編の『トビト記』に登場するトビトの息子で、目が見えなくなった父親のために大きな魚を捕まえ、天使ラファエルのアドバイスに従ってその魚の胆汁を父親の目に塗ると再び見えるようになったという物語である。聖堂内部には、身廊南側の高い位置にやはり同様にトビアの柱頭が見られる。トビアが馬乗りになっている魚は、およそ魚らしくない姿態で、ドラゴンの翼のようなヒレを持っており、トビアはそのヒレを両手でしっかりと捕まえている。これとよく似た場面の柱頭は、ディー大聖堂の鐘塔下のポーチの西側扉口に見ることができる。ディーの場合は、トビアが捕まえようとしているのは魚ではなく、あきらかにドラゴンのように見える。ヴァランスでは、やはり聖堂内の南側廊の上に、長い髪と胸を持つ女ケンタウロス(centauresse)の柱頭がある。ここではケンタウロスは、メス鹿に襲いかかる大きな翼と鋭いかぎ爪、そしてクチバシを持つグリフォンと戦っている。ケンタウロスは槍を振りかざし、グリフォンはケンタウロスの右足に噛みついている(これもまた同様の場面がディーの大聖堂の鐘塔ポーチの柱頭にある)。 南翼廊、南側廊、そして内陣を取り囲む周歩廊北側には、アトラス神の柱頭がある。前の2つではアトラスは裸で、手足を窮屈そうに曲げながら大きな目でこちらを見ている。体には植物のツルが左右から巻き付いている。その姿は、オーヴェルニュのモザ修道院教会(Abbatiale de Mozac)のものとよく似ている。一方、周歩廊のものは柱頭の3つの角にアトラスが衣服を着てアカンサスの葉の間に座っている。その顔は丸くふくよかである。その姿はアネロンのノートル=ダム教会(Notre-Dame d'Anneyron)のトランセプト南東端の柱頭に見られるアトラス神の彫刻と似ている。聖堂内にはこの他、ライオンの穴の中のダニエル、ライオンと戦うサムソン、左右からヘビに巻きつかれる男、髪を逆立てながら口からツルを吐き出す恐ろしい獣の顔(内陣南側の聖具室)などの柱頭彫刻が見られる。 柱頭彫刻以外で注目すべきは、トランセプトの南北の翼廊の入口の上にあるタンパンやリンテルの彫刻である。まず南側トランセプトの扉口(それ自体は今は埋められている)の上の彫刻は、半円形のヴシュールに囲まれたタンパンとその下の横長のリンテルからなる。共にかなり傷んでいるが、タンパンは黙示録の「栄光のキリスト」(le Christ en Majesté)である。中央には卵形装飾が連なる半円形の天蓋(アーキヴォルト)の下に、4つのテトラモルフ(福音書記者を表す生き物)に囲まれたキリストが玉座に座っている。G. Barruolによれば、キリストの足下には向かって左側にライオン(マルコ)、右側に雄牛(ルカ)、天蓋のすぐ上には左側にワシ(ヨハネ)、右側に天使(マタイ)がいるとされるが、ライオンと雄牛は傷みが激しく、またワシと天使は小さくて非常に分かりにくい。キリストは残念ながら頭部は破壊されており、その後ろの十字形の付いた丸い光輪だけが残っている。キリストは左手に書物(聖書)を持ち、右手で祝福を与えている。ただしその右手自体は失われている。キリストの頭上に架かる天蓋を左右で支えていた小円柱も失われているが、その左右両側にはそれぞれ天使が2人ずつキリストを讃えるようにしてに立っている。向かって左側の2人の天使は書物を持ち、そのうちキリストに近い方の天使が持つ書物には「S(anctus)D(eus)S(anctus)/(Fo)RTIS」と刻まれている。これは『イザヤ書』6章3節「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」を表している。一方、向かって右側では内側の天使は書物を、外側の天使は聖杯(calice)を捧げ持っている。 タンパンの下の横長のリンテルには、合わせて16人の人物がずらりと並んでいる。全員の頭に丸い光輪が輝いている。唯一その光輪に十字形が付いている中央の人物はキリストで、左右に2人ずついるカゴを持った使徒に向けて両手を広げている。これは4つの福音書で語られるイエスが起こした「パンと魚の奇跡」を表したものとされる(例えば『マタイの福音書』14章15-21節)。この奇跡は、イエスがガリラヤ湖畔で5つのパンと2匹の魚で5千人の空腹を満たしたとされるものである。G. Barruolによれば、旧約聖書の中の『伝道の書』(または『コヘレトの言葉』)11章2節の「パンを7つあるいは8つに分けて与えよ」に関連するものであるともいう。またエミール・マールは、左右対称となったこの「パンの増加」(Multiplication des pains)の構図は、アレクサンドリアのカタコンベに見られるギリシア人の手になる壁画のそれがさまざまな写本を経由してヴァランスにも伝わったものであるとしている。なおヴァランスでは、このパンと魚の奇跡を表す5人の人物の左右に、合計11人の使徒が立ち並べられている。 北側トランセプトの扉口には、聖母にまつわる5つの場面を表したリンテルが埋め込まれている。それぞれの場面はイェルサレム、ベツレヘム、ナザレと思われる街の塔と城壁に縁取りされている。右から左へ受胎告知、キリスト降誕、そして今度は左端から右へマギのヘロデ王訪問、マギを乗せる馬、そしてマギの礼拝である。再利用と思われるこのリンテルも傷みが進んでいて、人物たちの顔はどれもみな失われていてはっきりとは分からない。 ヴァランスのサン=タポリネール大聖堂は、11世紀の建設以来、長い歳月の中で数々の被害と修復を繰り返してきたものの、オーヴェルニュやブルゴーニュ、そしてプロヴァンスやアルプス方面との文化的交流が結節するローヌ地方の重要なロマネスク聖堂であった。また司教座聖堂であっただけではなく、巡礼路教会としての役割も果たし、ローヌ中流域にあっては、ヴィエンヌなどとともに、その宗教的・文化的地位は揺るがない。17世紀の修復が、可能な限りかつてのロマネスク期の姿そのままで行われたことも、文化遺産保護という意味では、今日においてもなお見習うべき姿勢であると評価できるであろう。 スタンダール(1989)pp.258-265; マール(1996)pp.51-53; Balsan(1973)pp.67-76; Barruol(1992)pp.251-261; Barruol(1995)pp.301-315; Besse(1932)pp.107-117; Bois(2010)pp.91-96; Blanc(1957)pp.87-116; Blanc(1964)pp.127-148; Bligny(1973)pp.62-63, pp.73-74, pp.161-189; Boudon et Rougier, dir.(1992)pp.241-274; Bromwich(1993)pp.26-28; Chouquer(2010)pp.97-112; Favreau, et al.(1992)pp.191-195; Ferrier, et al.(1989)pp.30-33; Février(1986)pp.69-72; Frachette(1998)pp.487-500; Gabayet et Parron(2010)pp.51-55; Perrot(1995)pp.260-325; Planchon et al.(2010)pp.621-697; Tardieu et Chantriaux(2010)pp.66-67; RIP. 26.2.5b ヴァランス/サン=ジャン教会(Église Saint-Jean, Valence) ヴァランス旧市街の北寄りのところにあるサン=ジャン広場に面して建っている。サン=タポリネール大聖堂からは北へおよそ350メートルである。建設は12世紀で、史料にその名が現れるのも同じ世紀のことである。16世紀の宗教戦争の際にはサン=タポリネール大聖堂とともに大きな被害を受け、その後1720年頃に修復工事が行われたが、1785年に今度は火災に襲われた。1840年から鐘塔を除く部分がすべて建て替えられ、12世紀のロマネスク期にさかのぼるのは、残された方形の鐘塔のみである。5段構えのこの鐘塔は、身廊に接続するポーチも兼ねていて、一番下は西面と南面に半円形のアーキヴォルトが架かる扉口が開き、その上の段との間にはパルメット文様が並ぶコーニスと、小さなアーチが連なるロンバルディア帯のような帯が巡らされている。下から2つめの段には西と南の面において3つの小アーチで1組となった縦長のロンバルディア帯が3つずつ連なり、その中央には縦に細長い銃眼のような開口部が見られる(ただし北面には2つの盲アーチのみ)。下から2段目と3段目の間にもパルメット装飾のコーニスが付けられている。下から3段目と4段目には、半円アーチが2つずつ組み合わされたベイが並んでいる(北面のアーチはわずかに尖頭形)。それらのアーチはそれぞれ装飾の施された(ただし摩耗している)ヴシュールに縁取られている。最上段は今度は2つの小アーチで一組となったロンバルディア帯が並び、西面と南面にはかつて時計がはめ込まれていた時の丸い縁取りが残されている。北面と東面には小さな尖頭形の開口部が見られる。 一番下のポーチの西面と南面の扉口に架かるアーキヴォルトには唐草文様が彫刻され、それを受け止める外側の円柱と内側の方形柱にはそれぞれ柱頭彫刻が据えられている。円柱の柱頭彫刻(アカンサスなどの植物文様)は比較的新しいものであると思われるが、西面の方形柱(側柱)の柱頭には、頭の毛を逆立てた恐ろしいライオンの顔が彫刻されている。これは「ヴァランティノワ風ライオン」とも言われ、ヴァランスのサン=タポリネール大聖堂[26.2.5a]やアリクサン[26.2.2]、またエトワール=シュル=ローヌ[26.2.7]、そしてディー大聖堂にも見られるものである。ライオンと言うよりもモンスターに近いような形相である。南面の側柱には、魚を捕らえるトビアの柱頭がある。またポーチの中には長いヘビに巻き付かれて頭を噛まれる女の柱頭がある。淫乱の罪を表したもので、ロマネスク聖堂ではしばしば見かけるテーマの1つである。 Barruol(1992)pp.261-262; Ferrier, et al.(1989)p.34. 26.2.5c ヴァランス/旧サン=リュフ修道院遺構(Ancienne abbaye Saint-Ruf, L'îl de l'Épervière, Valence ) ヴァランスの旧サン=リュフ修道院遺構は、ヴァランスの旧市街を囲む環状道路の南側のガンベッタ通り(Avenue Gambetta)からローヌ川沿いに南に向かうプロヴァンス通り(Avenue de Provence/D2007N)を約400メートル行った道路沿いにあり、ラ・コメット駐車場(Parking de la Comète)の南側に隣接する廃屋の敷地内にある。サン=リュフ修道院は、1039年に、聖アウグスティヌス戒律を遵守することで聖堂参事会改革を進めようとするプロヴァンスの律修参事会によってアヴィニョン郊外に創建された。12世紀にはグレゴリウス改革の動きを背景に、プロヴァンスやローヌ中流域にとどまらず、遠くはアキテーヌ、カタルーニャ、北イタリアなどにも分院を作り、その勢力を拡大した。1154年には、イングランド出身のサン=リュフ修道院院長ニコラス・ブレイクスピアが教皇ハドリアヌス4世(在位1154-1159年)となっている。しかしサン=リュフ修道院は12世紀に入ってアヴィニョンのノートル=ダム=デ=ドム司教座聖堂参事会などとの関係が悪化したこともあって、1158年に本拠地をアヴィニョンからヴァランスに移した。それはヴァランス旧市街の外のローヌ川沿いにある「リル=ドゥ=レペルヴィエール」(L'îl de l'Épervière)と呼ばれる場所であった。その後、ローヌ川の増水や盗賊による被害、そして宗教戦争による破壊(1562-1567年)などもあって、16世紀終わりから17世紀初め頃に、ヴァランスの市内(周壁内)に再び移転した。市内のこの新しい修道院は、フランス革命の後、聖堂は1806年にプロテスタントの寺院(Temple protestant Saint-Ruf)となっている(2005年から2010年にかけて、大々的に修復工事が行われた)。また修道院の建物の方は革命後にはヴァランス市役所やドローム県の県庁施設として使用されたが、第二次世界大戦の際の1944年8月15日に爆撃によって破壊されてしまった。現在はサン=リュフ公園(Parc Saint-Ruf)となり、かつての修道院の門(18世紀)だけがその公園の入口(Rue Malizard)に残されている。 ローヌ川沿いのリル=ドゥ=レペルヴィエールにあった旧サン=リュフ修道院については、宗教戦争によって破壊された後は廃墟と化し、わずかに残っていた建物が廃屋のごく一部分となって今日に至っている。2009年に発掘調査が行われ、サン=リュフ修道院の聖堂のものと思われる土台が、半円形の後陣のそれを含めて見つかっており、聖堂の全長は50メートル以上あったのではないかと考えられている。その全貌が明らかになるために、さらなる発掘調査の継続が望まれるところである。 Drôme Hebdo du 14 octobre 2009; Parron(2010)p.65; Veyrenche(2006)pp.5-18; Veyrenche(2010)pp.49-57; Veyrenche(2013)pp.155-158. 26.2.6 ボーモン=レ=ヴァランス/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame, Beaumont-lès-Valence) ヴァランスから県道D538Aを南東へ約10キロでボーモン=レ=ヴァランスに至る。ノートル=ダム教会は村のほぼ中央に建っている。12世紀後半あるいは末頃に建設され、当初はオーヴェルニュのラ・シェーズ=デュー修道院傘下のベネディクト派小修道院(プリウレ)であった。14世紀の百年戦争や16世紀の宗教戦争の際には大きな被害を受けた。17世紀以降は修復工事と崩落が繰り返され、半ば廃墟化した時期もあるが、18世紀半ばに修復・再建工事が大がかりに行われた。18世紀終わり頃に一時的にプロテスタントの寺院とされた後、1806年からは同じ聖堂を隔壁で東西に分割し、東側(内陣側)をカトリック、西側(身廊側)をプロテスタントというようにそれぞれ別々に使用するようになった。したがってこの聖堂は、カトリックの「教会」(église)とプロテスタントの「寺院」(temple)とを同時に兼ねるものとなったのである。ようやく2008年になって、聖堂を内陣と身廊に分割していた隔壁が取り払われ、開閉自在の大きなパネルに取り替えられた。これによりカトリックとプロテスタントの区域の行き来が、従来よりも格段に容易なものとなり、そのパネルを開放すれば、聖堂全体の使用が可能となったのである。「教会」と「寺院」という二重の役割がそれで解消されるわけではないものの、より共存の親近性が増すことになったとは言えるであろう。 このノートル=ダム教会は主身廊の南北に側廊が付く3廊式で、トランセプト様のベイの東に主後陣とその左右の小後陣が接続する。現在の建物は建設時期の異なるいくつかの部分からなっていて、最も古い部分は北側の小後陣とその西に続く北側廊の2つのベイで、これは11世紀後半から12世紀初めにかけてのもの、次は南側の小後陣と身廊の東寄りの2つのベイおよび南側の側廊外壁と西ファサードで12世紀後半のもの、第3のフェーズは方形となった主後陣で12世紀終わり頃から13世紀初めにかけてのもの、最後が北側の側廊外壁でこれは近代になってからのものである。 西ファサードは、3廊式に対応したものであるので横に広く、大きくて安定した印象を受ける。一番上は三角形の切妻形で、2つの扶壁にはさまれた主身廊にあたる中央部分が少し前に張り出している。下にはポルタイユ(扉口)があり、細長い円柱がインポストと柱頭彫刻を介して半円形のアーキヴォルトを受け、その中に近代になって作られた長方形の扉が開く。その上には半円頭形の窓がある。その窓は、モールディングに縁取られた半円形のアーキヴォルトとそれを受け止める柱頭彫刻付きの小円柱が外側にあり、内側は隅切りされたヴシュールとそれを受ける側壁となっている。そのヴシュールは外縁部に歯車形の帯状装飾が付けられている。 聖堂南側の外壁には扶壁が並び、その間に大小の半円頭形の窓が開けられている。西から2番目のベイにはロマネスク期の古い扉口の名残が見られる(今は埋められている)。西から4番目のベイに開けられた方形の扉口は近代になってからのものである。またトランセプト様の南側のベイの外壁にもかつて開けられていた出入口の名残が見られる(埋められている)。これはかつての小修道院の建物に通じていたものであろう。一方、聖堂北側の西から4番目のベイに開けられた出入口は、かつてあった修道士たちの墓地との間を行き来するためのものであったと思われる。後陣は、もともとは半円形の主後陣とその左右に並ぶ小後陣からなっていたが、12世紀終わり頃に主後陣が取り壊されて方形のものに建て替えられた。この方形の主後陣は身廊部よりも背が高く、しかも南北の角に太い扶壁が2つずつ付けられており、非常に厳めしいものとなっている。恐らくはゴシックあるいはシトー派の様式を意識したものではないかと言われている。聖堂の北東角に立つ方形の鐘塔は、中段には3つのアーチが連なる盲アーケードが付けられ、その上の段は西と東の面に、鐘を吊すための半円頭形の開口ベイが並べられている。その2つのベイの外側には左右に葉飾り文様の柱頭彫刻を持つ小円柱が立っている。 西ファサードから聖堂内部に入ると、そこはかつての身廊と側廊を隔てていたアーケードとピアを撤去した、ベイ3つ分に相当する正方形の広い空間で、今はプロテスタントのための礼拝に使われている。祭壇(聖卓)は北側に置かれている。天井はもともとは身廊・側廊ともに半円筒形トンネル・ヴォールトであったが、宗教戦争の際に破壊された後は木組みの平天井である。ロマネスク期の建築の雰囲気をよりよく残しているのは隔壁から東側のカトリックの区域で、主身廊と側廊の間にはピアの上に架かる半円形の二重アーチがアーケードとなって並ぶ。そのアーチは主身廊の南北において高さが異なっている(北側のものが低い)。主身廊ではアーケードの上の水平のコーニスを起拱点としてその上に半円筒形トンネル・ヴォールトが架かる。横断アーチは半円形で、葉飾りの柱頭彫刻を持つ壁付きの小円柱が受け止める。その小円柱は床までは下りず、逆三角形の逆ピラミッド形(逆三角形)コーベルが受け止める。これはシャルペイのサン=ディディエ教会[26.2.3]、エトワール=シュル=ローヌのノートル=ダム教会[26.2.7]、そしてシトー派のレオンセル修道院などにも見られるものである。 側廊は南北ともに壁面には壁アーチが連なり、天井は半円筒形トンネル・ヴォールトである。ただし最も古い北側の東端のベイのみリブのない交差ヴォールトとなっている。南側の側廊の東から2番目のベイの扉口の上に開く窓は、聖堂外側においては何の装飾もない開口部であるが、内側では大きな壁アーチの中にあって、大きく隅切りされた窓の左右に柱頭彫刻付きの小円柱が配され、その上に半円アーチが架けられている。小円柱の柱頭彫刻は、向かって左側が植物のツルを吐き出す人面が角に2つ、また右側はモンスターと戦う人である。南側東端のベイにも同様のロマネスク様式の窓が開けられているが、こちらの窓では左右の小円柱は失われている。この同じベイには壁付き円柱やピアにロマネスクの柱頭彫刻が残されている。凱旋アーチ(勝利門アーチ)と南側の側廊の間にあるピラストルに付けられた円柱のそれはアカンサスの大きな葉とその間に顔を出す小さな人物、また東から2番目の側廊のベイの北東端のピアに付けられた円柱の柱頭彫刻は、大きな葉の上に体を横に伸ばす羊と、それに向き合って少し体をかがめるようにして立つ羊飼いである。 小さな窓の開いた凱旋アーチから東の主後陣(内陣)は、方形となっていて東端は平面である。その平面の壁面には南北と東の3つの面にわたって半円形の小アーチが3つ連なり、それぞれの面において、中央のアーチの下に内部に向けて隅切りされた半円頭形の窓が開く。またこれらの小アーチはインポストを介して小円柱が受け止めていたと思われるが、現在はインポストのみを残して小円柱はすべて失われている。後陣の東面の上部には小さめの丸窓が2つ開けられている。この後陣の天井は半円筒形ヴォールトである。南北の半円形の小後陣は、北側のものが南側のものよりも高さが低くなっているが、こちらの方が11世紀後半にさかのぼるのでより古い。しかし両者ともに東端には細長い窓が開けられ、現在はステンドグラスがはめられている。両者とも半ドームが架かるが、南側の小後陣ではその半ドームの上にさらに小さな凱旋アーチが架かり、そこにも内部に向けて隅切りされた半円頭形の窓が開けられている。北側の側廊の東から2番目のベイに残された古い半円頭形の出入口(すかつては修道士たちの墓地に通じていた)は、今は埋められているが、そのタンパン部分には三角形の線刻図形が3つ並べて彫刻されている。その意味するところは、今となってはよく分からない不思議な装飾である。 Barruol(1992)pp.317-318; D'Amore(1995)pp.23-32; Ferrier, et al.(1989)p.40; RIP. 26.2.7 エトワール=シュル=ローヌ/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame, Étoile-sur-Rhône) ヴァランスから県道D111を南へ約13キロである。中世の間、このエトワールは« castrum de Stella »と呼ばれ、村を見下ろす小丘の上にヴァランティノワ伯であったポワティエ一族の城があった。同じくかつて« ecclesia de Stella »と呼ばれたノートル=ダム教会は、旧市街のほぼ中ほどのGrand Rue(D444)沿いに建っている。もとはエトワールから南東に約1.5キロのところにあったサン=マルスラン修道院に属する小修道院(プリウレ)であった(このサン=マルスラン自体、オーヴェルニュのサン=シャフル修道院-現在のLe Monastier-sur-Gazeille-の傘下にあった。現在は農家になっている)。ノートル=ダム教会が最初に建設されたのは12世紀後半から13世紀前半にかけてで、まず身廊部分が、次いで後陣が建てられた。その後は数々の改築・増築の手が加えられている。1651年に火災によって被害を受けている。 この聖堂は、ローヌ中流域地方のロマネスク後期の建築群に属するもので、レオンセル修道院を介したシトー修道会の影響やまたシャレー修道会からの影響も認められるとされる。建物はゆるやかな斜面に建っており、身廊-後陣の軸が北西-南東方向に傾いている。西ファサード(正確には北西ファサードと言うべきか)は横幅があって高さが抑えられており、中央には二重の半円形アーキヴォルトが架かる飾り気のないポルタイユが開く。さらにその真上と左右に三角形を形成するように半円頭形の大きな窓が開けられている。左右の窓の頭部には半円形のモールディングが付けられている。このファサードの仕様はシトー派を連想させるものであるが、3つの窓はゴシック様式で、17世紀に大きく広げられたものである。聖堂北東側においては、身廊部の中ほどの所に、上部が古代風の三角形のペディメントとなっている大きなポーチが付けられているのが印象的である(このポーチとその両側の側室は近代のもの)。 出入口の扉までは16段の石段を登る。ポルタイユには、左右にそれぞれ、縦あるいは横に溝が掘られた基壇の上に立つ3つの円柱と縦溝の掘られた方形の側柱が並んでいる。円柱は左右ともに中央のものはひねり柱となっている。それらの円柱にはパルメットやアカンサスの柱頭彫刻が付けられているが、やはり中央のものは吹き上がる葉の先端が人間の顔になっている。この顔はそれぞれの柱頭に3つずつあって、そのうち男が1つ、女が2つとされる。また向かって左の一番内側の柱頭にはパルメットの葉の上に植物のツルを吐き出すモンスターらしき顔がのぞいている。最奥にある方形の側柱の柱頭は、まるで日本の鬼瓦のように恐ろしい顔をしたライオンが髪を逆立てながらこちらをにらみつけ、口からは植物のツルを吐き出している。いわゆる「ヴァランティノワ風ライオン」と言われるものである。円柱と側柱の上にはポルタイユを構成する3重のアーキヴォルトが架かる(ただしその外側に少し形がゆがんだ尖頭形のモールディングが付けられている)。そのうち一番内側のものは、7つの小アーチが連なる花弁アーチとなっており、さらにその内側のタンパン部分には、17行にわたってラテン語の碑銘が刻まれた横長の方形の石版が埋め込まれている。これは1244年2月21日に、ヴァランティノワ伯エマール(Aymar III de Poitiers)が、エトワールの住民との間で交わした免税を認める約定を記したものである。この約定(charte des franchises)は、当時ヴァランティノワ伯が対立関係にあったヴァランス司教に対抗してエトワールの住民を味方に引き入れるために交わされたものとされる。 このポーチに並んでさらにトランセプトの北翼も上部は三角形のペディメントとなっている。その斜め下には、かつて村の市場にあったという石造りの穀物計量台が置かれている。深さの異なる3つの穴が開けられていて17世紀まで実際に使用されていたものであるという。そこからさらに聖堂の南東側に回ると、平面形の後陣となる。主後陣の左右はやはり平面形となった祭室が2つずつ並び、主後陣部分だけが少し外に張り出している。この主後陣には大きな尖頭形の窓が開けられ、向かって左側の祭室(小後陣)には、丸窓のほか半円アーチに縁取りされた小さめの窓(隅切りされている)が開けられている。向かって右側には、主後陣のすぐ隣にやはり小さめの窓が1つだけ開けられている。聖堂の南側(南西側)の外壁は、切り整えられた中石材がきっちりと積まれた壁面が続き、隣り合う住宅との間にフライング・バットレス(アルク・ブータン)が2つ架けられており、また交差部の屋上に出るための階段が付けられている。そのトランセプトの交差部の上に立ち上がる方形の鐘塔は、下半分が12世紀末頃から13世紀初め頃にかけてのもので、時計や開口部の付けられた上の2段は17世紀に再建されたものである。 聖堂内部は全体的に非常に簡素で、シトー派の建築の影響を強く感じさせる空間構成となっている。主身廊の両側に側廊が並ぶ3廊式で、身廊部分は6ベイからなり、その東(南東)にトランセプトと後陣が続く。平面形の後陣には尖頭形の大きな窓が外から明るい光を堂内に導き入れている。主身廊と側廊の間に立ち並ぶ八角形(ただし西から5番目と6番目のベイの間の柱は太い四角形)の太い柱と尖頭形のアーチがアーケードをなしている。主身廊の尖頭形トンネル・ヴォールトはやはり尖頭形となった5つの横断アーチによってベイに区切られるが、この横断アーチはアーケードのエコワンソン(スパンドレル)のところに付けられた縦長の逆三角形コーベル(コンソール)が受け止める。これはシトー派のレオンセル修道院などに見られる仕様である。側廊においては各ベイを区切る横断アーチは二重になっており、やはり逆三角形のコーベルが受け止めているが、外側の壁では内側のアーチは逆台形の形をした柱頭となり、それがそのまま壁付きのピラストルとなって床まで下りている。 トランセプトから東側は、身廊部よりも建築年代が少し後(12世紀終わり頃から13世紀前半頃)で、天井はその上に鐘塔が立つ交差部だけが4分交差リブ・ヴォールトである以外は尖頭ヴォールトとなっている。交差部のリブの丸い要石には祝福を与える神の手が彫刻されている。この交差部周辺のピラストルや円柱にはさまざまな柱頭彫刻が見られる。植物の葉飾り以外で注目すべきは、北ポルタイユの円柱に見られたような、いくつかの人面彫刻である。柱頭の角の部分においてアカンサスやパルメットの葉の中から首を伸ばすように顔が突き出され、口からは植物のツルを左右に吐き出している。中には人間の顔ではなく、怪物(あるいはライオン?)のようなものもある。また北側の側廊の西から6つめのベイのコーベルの一番下の部分には、大きな角をはやした雄羊の頭が彫刻されている。方形の主後陣の左右には祭室が2つずつ並ぶ。主後陣に隣り合う2つの祭室には外壁側だけではなく身廊側に向けてもロマネスク様式の隅切りされた窓が開けられている。ただし南側の祭室は、今は聖具室となっていて身廊側に面した窓は塞がれている。 なおノートル=ダム教会からGrand Rue(D444)を西へ200メートルほど行ったところに、かつてこのエトワールの施療院の一部であったサント=カトリーヌ礼拝堂(Chapelle Sainte-Catherine)がある。1328年の史料にその名が現れる。施療院は宗教戦争などうち続く戦乱などによって破壊されるが17世紀後半に再建され、病人のみならず貧者、戦傷者、孤児なども受け入れた。1664年にディアーヌ・ドゥ・ポワティエの残した文書には« Maison Dieu »と書かれている。礼拝堂が再建されたのは1842年のことであった。およそ7メートルの長方形の身廊に台形の後陣が続く小さな礼拝堂で、身廊の南北にはロマネスク風の窓が3つずつ開けられているが、建物自体は新しいものである。 Barruol(1992)pp.280-286; Da Costa(2000b)p.33; Ferrier, et al.(1989)pp.38-39; Morel(2007)pp.51-52; Reynaud(1995)pp.159-164; Verdier et Bois(2003)p.24; GV.; RIP. 26.2.8 ユピ/サン=ボディル教会(Église Saint-Baudile, Upie) ユピの村は、ヴァランスからだと南東へ県道D261、D211そしてD142を通っておよそ18キロである。ドローム川沿いのクレ(Crest)からだとD538とD142を北へおよそ13キロなので、どちらかと言うとクレからの方が近い。サン=ボディル教会はユピの村からD142を北へ800メートルほど行ったところにある村の墓地の中に建っている。12世紀終わり頃から13世紀初め頃にかけて、オーヴェルニュのサン=ジェロー=ドーリヤック修道院(Abbaye Saint-Géraud d'Aurillac)によって創建されたベネディクト派の小修道院付属聖堂であった。 現在のサン=ボディル教会は、ほぼ正方形の小さなものであるが、もともとはボーモン=レ=ヴァランスのノートル=ダム教会[26.2.6]のように、身廊の東側に方形の後陣(内陣)が続くものであった。16世紀の宗教戦争の際に身廊部分が破壊され、その後再建されることなく後陣部分だけが今日まで残っているのである。近代に入って改築された西ファサードは、したがってかつての身廊部分との境にあたる。現在は不整形のさまざまな大きさの石積みで塞がれているが、そこに架かっていた半円形の凱旋アーチの名残がその壁面に残されている。左右両端のピアには、いわゆる「トスカナ様式」の付け円柱がインポストとともに据えられている。シンプルな方形のポルタイユ(扉口)の上には半円頭形の窓が開けられており、一番上には十字架が載せられた頭頂部が三角形の小さな鐘楼が立つ。聖堂の北西端の下部には、かつてこの主後陣の左右に並べられていた半円形の小後陣の土台の一部が残されている。 聖堂東壁である後陣の左右両端は、がっしりした扶壁(東側と南北側の2方向に付けられている)で支えられている。この後陣の壁は切り整えられた中石材がきっちりと積み重ねられており、中央には半円形のアーチによって二重に囲まれた半円頭形の窓が開けられている(内部に向けて大きく隅切りされている)。またその斜め上には左右に2つ、細い銃眼のような長方形の開口部が付けられている。これもボーモン=レ=ヴァランスとよく似ている(ただしボーモンのものは丸窓)。聖堂内部は2本の横断アーチに支えられた半円筒ヴォールトが架かる。横断アーチを受ける2本の円柱の柱頭彫刻は、植物文様や松ぼっくりである。これらは11-12世紀頃のものの再利用である。 Barruol(1992)p.332; Ferrier, et al.(1989)p.40; RIP. 参考文献と略記号 スタンダール(1989):『南仏旅日記』山辺雅彦訳、新評論(Stendhal, Mémoires d'un touriste, Paris, 1838)。 マール、エミール(1996):『ロマネスクの図像学(上)』田中仁彦・池田健二ほか訳、国書刊行会(Emile Mâle, L'Art religieux au XIIe siècle en France, Paris, 1922)。 Balsan, Alain(1973):Valence au grand siècle, Valence, Éditions Sorepi. 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