南フランス・ドローム県北部の中世ロマネスク聖堂(2)  中川久嗣
       サン=ドナ=シュル=レルバスからロマン=シュル=イゼールまで
             『文明研究』(東海大学文明学会)第37号、2019年3月

26.1 アルボンからロマン=シュル=イゼール周辺まで(承前)

26.1.15a. サン=ドナ=シュル=レルバス/サン=ピエール・エ・サン=ポール・コレジアル教会
                    (Collégiale Saint-Pierre et Saint-Paul, Saint-Donat-sur-l'Herbasse)
 ロマン=シュル=イゼール(Romans-sur-Isère)から県道D53で北へ13キロ、ローヌ川からだとアルデッシュ県トゥロン=シュル=ローヌの対岸にあるタン=レルミタージュ(Tain-l'Hermitage)から県道D532とD67を東へおよそ18キロ。サン=ピエール・エ・サン=ポール・コレジアル教会は、この街の旧市街(県道D53とD467の交差点の北西)の小高い丘の上に建っている。すぐ隣にはサン=ミシェル礼拝堂(Chapelle Saint-Michel[26.1.15b.])がある。
 この街は古代にはジュピターを連想させる《Jovinzieu》という名で呼ばれていた。言い伝えによると、732年にトゥール・ポワティエ間でフランク軍に敗れたイスラム勢力がローヌ川を渡って東進したため、彼らの攻撃から逃れて、グルノーブルの司教コルブス(Corbus)が、6世紀の聖人ドナートゥス(Saint Donatus)の聖遺物とともにここに避難してきた。ドナートゥスすなわち聖ドナはオルレアン出身の隠修士で、リュール山地(現在のアルプ=ドゥ=オート=プロヴァンス県西部)で隠修生活を行い、後に聖人となった。聖ドナの聖遺物は最初はシストロンにあったが、そこから移されたこの聖人の聖遺物を崇敬して多くの巡礼が《Jovinzieu》を訪れるようになると、街はほどなくこの聖人の名前を冠するようになる。グルノーブルの司教たちは、その後イスラムの脅威がなくなるまでおよそ2世紀にわたって《Jovinzieu》の街に滞在し、居館や聖堂、そして街の防御壁の建設に尽力するなどした。司教がグルノーブルに去った後は、アウグスティヌス会に服する聖堂参事会がサン=ドナの街とそこに作られていた修道院を管轄した。9世紀のこと、ブルグントとプロヴァンスの王であったボゾンが、当時ヴィエンヌ伯領であった《Jovinzieu》のサント=マリー教会とサン=ドナ教会をグルノーブルの司教イザック(Isaac)に寄贈した。ボゾンの息子で王位を引き継いだルイ(3世盲目王)が、894年にその寄贈を確認しており、その証書の中にこの聖堂の名前《ecclesia sancte marie seu sancte donate》が記されているのが史料における初出である。そのようなわけで、グルノーブル司教はその後もサン=ドナに影響力を持ち続けたため、同様にこの街が自らの教区内にあったことでその支配権を主張するヴィエンヌ大司教と11世紀から13世紀まで争うこととなった。結局1289年、ヴィエンヌ大司教はサン=ドナを確保する代わりに、サン=バルテレミーとサン=ジェニ=ドゥ=ヴィネーをグルノーブル司教に譲るという形で決着した。なおサン=ドナ修道院は、1106年からウルクス(Oulx/現在はイタリアのピエモンテ州)の聖堂参事会の管理下に置かれた。
 13世紀から15世紀頃にかけてがサン=ドナ修道院の最盛期であった。16世紀の宗教戦争の際には、とりわけ1562年のプロテスタントの略奪と破壊によって修道院とその付属聖堂は大きな被害を受け、聖ドナの聖遺物も失われてしまった。1600年には聖堂参事会員は2人しかいなかったと伝えられる。1613年からはトゥルノン(Tournon)のイエズス会の管理下に置かれるが、彼らは聖堂の修復にはあまり熱心ではなく、どちらかというと放置したままであった。1764年にイエズス会がフランスから追放されると、サン=ドナにはとうとう参事会員がまったくいなくなってしまった。フランス革命はサン=ドナのそうした凋落に最後の打撃を与え、修道院や付属聖堂のかなりの部分が取り壊されてしまった。また修道士の居館(conventuel)などは一時は国有財産となった後、サン=ドナのコミューンの所有となった。19世紀になって聖堂の身廊部分など多少の修復工事が行われ、1849年から聖堂はコレジアルから教区教会となった。ただし現在でも「コレジアル」と呼ばれている。
 現在のサン=ドナ・コレジアル教会およびそれに隣接するクロワトルその他の建物は、かつての司教の城館やサン=ドナ修道院などが集まっていた丘の上にグルノーブル司教によって建てられた。最も古い部分は11世紀にまでさかのぼる。旧クロワトル(回廊)の北側には12世紀の建設による聖堂があったが、その身廊部分は1939年~1940年に取り壊され、現在の新しい身廊に建て替えられた。取り壊される前にマルブール(Marburg)によって撮影された古写真の中に、今はなき聖堂北壁にあったかつてのポルタイユの姿を見ることができる。それによると、12世紀のこの古いポルタイユは、扉の上に3重のヴシュールからなるアーキヴォルトが架かり、一番外側のヴシュールにはパルメット装飾が彫刻されていた。この一番外側のヴシュールと一番内側のヴシュールは、基壇の上に立つ計4本の円柱がインポストを介して受け、またそれら円柱の柱頭にはアカンサスなどの植物文様、花飾り、モンスター、人間の顔などが彫刻されていた。このポルタイユを含めてサン=ドナ・コレジアル教会、そしてそのクロワトルは、1926年に歴史的建造物(Monument Historiqe)に指定・登録されたにもかかわらず、残念なことにその後クロワトル西側を除いてすべて取り壊されてしまった。
 旧クロワトルにあたる中庭には、新しいコレジアル聖堂の西端にある鐘塔の下に開く12世紀のポーチを通って入る(そのアーチは半円頭形で、モールディングで縁取られている)。方形のがっしりしたこの鐘塔は、17世紀以降にかなり改修の手が加えられたもので、高さのある下段の上に2段構えの鐘楼が載る。19世紀に再建された最上段は、3つの半円形アーチの連なるアーケードで(ただし19世紀のもの)、その下の段は2つのアーチが並ぶアーケードである。最上段の持ち送りは小さな方形のモディヨンが並び、その下の段には小さな半円形のアーチの連続するロンバルディア帯のような装飾(西面は三角形のギザギサ文様)になっている。この2つの段のアーチはすべて植物文様や渦巻き文様の柱頭彫刻の付いた小円柱が受けるようになっている。鐘塔の下の扉から入ったポーチの中は、交差リブ・ヴォールトが架かり、聖堂に入るための扉口の上の半円形タンパンには、墓碑と思われる古い碑文の刻まれた石版がはめ込まれている。
 ポーチを通り抜けると、その南側がかつてのクロワトルである。もともとは長方形の中庭とそれを取り囲む東西南北4面のギャラリーからなり、内径(アーチが連なるアーケードから内側)は、東西約25メートル、南北約15メートルである。中庭を取り囲む回廊の廊下部分の幅は約3.5メートルである。もともとは全部で26のアーケードが中庭に面して並んでいた。4つの隅にはそれぞれ太い角柱が立ち、そこには丸彫りによる人物の立像があった。クロワトルのこうした仕様や人物彫刻の様子は、プロヴァンスでは例えばアルル(サン=トロフィーム)やエクス=アン=プロヴァンス(サン=ソヴール)を思い起こさせる。ただ残念なことに1809年、市当局が東南北の3面を取り壊してしまい、現在残るのは西側のギャラリーと、東側のかつての修道院参事会室の壁に残されたアーケードのみである。中庭に面した南側の建物の壁には、かつて南のギャラリーの木組みの屋根を支えていたモディヨンが等間隔に残されている。
 今日まで残る西側のギャラリー(天井は木組み)は、中庭に面して4つの半円アーチが連なるアーケードとなっていて、その半円アーチを、基壇の上に並ぶ2本1組となった短い柱が支えている。それらは無装飾の方形のピラストルや装飾彫刻の施された小円柱で、アーケードの中央に位置する方形のピラストル以外はすべてアカンサスなどの植物の葉飾りや線刻の図形などの柱頭彫刻が付けられている。中庭側からこのアーケードを見ると、4つのアーチの上に連続するパルメット装飾の彫刻されたフリーズ(コーニス)が水平に延びている。そのパルメットの間には、口を膨らませた人間の顔や羽を広げた鳥(《Zodiaque》によれば獲物を捕まえたワシ)などの彫刻も見られる。またアーチとアーチの間のスパンドレル部分には、丸いメダイヨン彫刻が2つある。そのメダイヨンの中には、向かって右側には「淫乱」(髪を振り乱した裸の女)、左側は「鍛冶屋」(ハンマーと梃で鉄を打つ)の姿が彫られている。アーケードの中央の柱の上には、座って片手に書物を持つ人物の座像が据えられているが、頭部が欠けている。恐らくは旧約の預言者イザヤではないかと考えられている。
 この西のギャラリーを今度は内側(西側)から見た場合、とりわけ注目すべきはその左右両端にある太い角柱とそこに施されたいくつかの人物彫刻である。まず向かって左(北)側のそれ、すなわち北西の角柱であるが、北側の面には縦に長い唐草文様の美しいフリーズが彫刻され、その向かって右隣、すなわち柱の角部分には、右手に巻紙(phylactère)を持った預言者らしき人物がいる。高さは高さ約1.25メートルである。傾斜した台座の上に素足で立ち、袖の長いチュニックを着ている。チュニックの裾にはヒダが綺麗に彫刻されている。顔はかなり摩耗して傷んでいるのではっきりとした表情は分からない。その頭には光輪は見られず、その代わり頭の後ろにアカンサスの葉飾りがある。この人物の持つ巻紙に刻まれていた文字はすでに摩耗して読み取れないので同定が難しいが、この人物は預言者あるいは聖ドナなのではないかと考えられる。そのすぐ隣には長方形のモールディングの枠の中に、つま先立ちをしてレベック(ヴァイオリンの原型となった小さな弦楽器)を弾く人物がいる。彼は左手に楽器を持ち、顎でしっかりと楽器を支えて演奏している。この音楽家のさらに右隣には、モンスターや人間の頭が柱頭に彫刻された小円柱が立っている。ただしその柱頭彫刻はかなり摩耗している。
 この北西の角柱の、植物のフリーズや人物彫刻の上にはインポストが水平に付けられ、さらにその上に、2つの丸いメダイヨンがはめ込まれている。まず北面のそれは、細かい葉飾りが並ぶ丸い縁取りの中に、そのメダイヨンの形の中に合わせるように体を曲げながら竿で麦穂をたたく農夫らしき人物がいる。しかしあるいは、ツルハシで土の中に残った枯れ木を掘り出そうと悪戦苦闘する農夫のように見えなくもない。また西面の音楽家の上のメダイヨンには、体を2匹のヘビに左右から絡みつかれる裸の人間がいる。ヘビは大きくうねりながら左右両側からこの人物の顔に噛みついている。これはロマネスク聖堂の彫刻装飾ではしばしば見かける「色欲・淫乱」(Luxure)のモチーフで、先に触れたようにこのギャラリーの中庭側のスパンドレル部分にも同様のモチーフのメダイヨンが見られる。
 この北西の角柱の隣(南)には、アカンサスの葉飾りの柱頭彫刻を持つ2本1組の方形の柱がアーケードのアーチを支えている。中庭側の柱身は無装飾であるが、通路側(内側)のそれはより小さくて繊細なもので、菱形のウロコ状の模様が付けられている。またその柱の柱頭の葉飾りの中には動物らしき顔が見える。さらにその隣の大きな幅のある無装飾の方形柱を挟んで、その次にはやはり2本1組の柱がある。その2本のうち、中庭側のものは無装飾の方形柱で、摩耗した植物文様の柱頭彫刻があり、内側のそれは線刻による図形的でシンプルな柱頭彫刻である。
 南西の大きな角柱には、北西のそれと同じく、角部分および南面にやはり音楽家が配されている。まず角部分の人物であるが、傾斜した台座に素足で立ち、ヒダの付いたチュニックとマントを着ている。頭の後ろには、まるで放射状の花飾りのような光輪が付けられている。顔はかなり傷んでいる。北西角の人物は巻物を手にしていたが、ここでは手に持った書物を胸のところで開いている。この人物は福音書を持つ聖ヨハネであるとの見方がある一方で、聖バルテルミー(Saint-Barthélemy/聖バルトロマイ)であるとする見方もある。なぜならこの人物の持つ書物は、現在は摩耗してしまっているが、19世紀にはそこに聖バルテルミーの名の一部《TOLOMEVS》が刻まれているのが読めたと伝えられるからである(現在でもそのうちの数文字《-OLO-VS》がなんとか読み取れる)。この聖ヨハネあるいは聖バルテルミーの向かって左隣(角柱の西面)にはやはり音楽家がいる。頭には丸帽子をかぶり、ヒダの付いたチュニックの上からマントを着て、足を左右に広げて半ば何かに腰掛けるようにしてレベックを演奏している。ただし今度はレベックを右手に持ち、弓を左手に持って弾いている。顔は目をしっかりと見開いているが、口の部分の石が欠けている。北西の角柱の音楽家は、四角い枠組みの中に余裕を持って収まっていたが(つまり周囲には何もないスペースが多くあったが)、この南西の角柱の音楽家の場合は、石材自体は四角いが、その中に付けられた半円アーチのニッチの枠の中に窮屈そうに体を縮めて演奏しており、それはアンリ・フォションの有名な「枠組みの法則」を思い起こさせるものとなっている。
 サン=ドナのクロワトル彫刻に見られるこうしたロマネスク期の音楽家の姿については、旧約聖書に出てくるイスラエルの王ダビデと彼の音楽を思い起こさせるものであるとする見方や、13世紀における南フランスのトルバドゥールの伝統に結び付いたものであるとする見方などさまざまである。カタルーニアのサンタ・マリア・デ・リポイ修道院付属大聖堂のファサードに見られる音楽家の彫刻との類似性も指摘されたりするが、これもまた確かなことではない。
 南西の角柱の北面には、方形の小柱が立つ。その彫刻文様は、直線と曲線が組み合わされ、その中に小さな玉が並ぶという美しいものである。その小柱に付けられた柱頭彫刻は「善悪の知識の木」と「アダムとイヴ」である。アダムの下半身はあまり人間らしくなく、動物の足のようにも見える。アダムとイヴの間にある善悪の知識の木にはヘビが巻き付いている。一方、南西の角柱の南面には、長方形の二重の枠組みの中に、唐草文様と大きな葉飾りが彫刻されている。北西の角柱の北面にある唐草文様のフリーズと同様に、葉飾りの先に小さな穿孔が多数開けられている。これはプロヴァンスから影響であると思われる。
 旧クロワトルの中庭には、西寄りの所(西のギャラリーのすぐ近く)に古い井戸がある。また北側の聖堂の近くに聖ドナの像が立っている。これは1864年にナポレオン3世の援助によって、地元の彫刻家ジャン=ルイ・フルニエが作ったものである。中庭東側の壁に残されたアーケードは、中央が修道院参事会室の入口となっており、3つのアーチを6本の小円柱が受ける。中央の入口の左右のものは2本1組となっている。それらの小円柱の柱頭彫刻は聖書の説話的なテーマ、怪獣、アカンサスなどであるが、これらはすべて最近になって再建されたもの(レプリカ)であって古いものではない。
 サン=ドナのコレジアル教会は、すでに触れたように20世紀半ばに新しく建て替えられたものである。主身廊の南北に側廊が並ぶ3廊式で、トランセプト交差部の東には方形の主後陣とその左右にやはり方形のそれよりも幅の狭い小後陣が並ぶ。主身廊には尖頭形のトンネル・ヴォールトが架かり、側廊は交差ヴォールトとなっている。主後陣と小後陣の天井は、ともにゴシック様式の4分交差リブ・ヴォールトである。主後陣の東端の壁にはランプラージュ(トレーサリー)とランセットで装飾された縦長の尖頭形の窓が開けられていて、そこにはステンドグラスがはめられている。この主後陣を除いて、聖堂内の壁や柱は白く上塗りされている。南北の側廊の壁には、背の低い半円頭形の窓と、高さのある同じく半円頭形の窓が、交互に並べて開けられている。主身廊の西端には20世紀半ばに据えられた大きなオルガンがある。サン=ドナの街は1962年からヨハン・セバスチャン・バッハ音楽祭を開催しており、このオルガンも音楽祭のコンサートの際に使用されている。なお先に触れたように12世紀にサン=ドナ修道院がウルクスの管理下に置かれていたことが縁となって、1988年にサン=ドナとウルクスは姉妹都市となっている。

Barruol(1992)pp.195-209 ; Bligny(1960)p.108 ; Bligny(1973)p.108 ; Bornecque(2002)pp.36-37 ; Ferrier et al.(1989)pp.20-21 ; Laurent(2010)pp.4-6 ; Reynaud et Vernin(2002)pp.211-213 ; Thirion et Schricke(1972)pp.320-360 ; Vallery-Radot, et al.(1966)p.134 ; Wullschleger(2005)pp.115-117 ; GV.; RIP.



26.1.15b. サン=ドナ=シュル=レルバス/サン=ミシェル礼拝堂
                 (Chapelle Saint-Michel, Saint-Donat-sur-l'Herbasse)
 サン=ドナのサン=ミシェル礼拝堂は、コレジアル教会[26.1.15a]から道を隔ててすぐ北にある。かつてはサン=ドナ修道院やコレジアル教会とともに、グルノーブル司教の居住する城館の一部をなしていた。その頃、司教がもっぱら個人的に使用していたことから別名「司教たちの礼拝堂」(Chapelle des évêques)とも呼ばれる。その後は、17世紀まで苦行会(Pénitents du Gonfalon)の礼拝堂として使用されていた。建物の下をくぐるようにしてコレジアルと丘の下を結ぶ階段状の通路が付けられている。この通路は、中世期には外部からコレジアルの北のポルタイユ(今はない)へと真っ直ぐに続くものであった。20世紀前半にはこの通路は石積みで埋められていたが、その後それが撤去されて中の様子を見ることができるようになっている(ただし今は鉄格子がはめられていて通り抜けることはできない)。
 サン=ミシェル礼拝堂は、12世紀終り頃あるいは13世紀初め頃に建設された単身廊の小さな聖堂で、ロマネスク期の雰囲気を今によく伝える小聖堂である。中世の間はサン=ドナ修道院の周壁の一部でもあった。現在、建物の西側は別の住居(司祭館)が連続している。特徴的なのは東側の壁から外に張り出すようにして付けられている半円形の小さな後陣で、これは聖堂の後陣というよりも、まるで城塞建築などに見られる丸い出窓のようにも見える。上部の持ち送りにはロンバルディア帯があって、その下に半円頭形の小さめの窓が開けられている(現在は中から塞がれている)。後陣の張り出しの上の切妻中央には半円頭形で隅切りされたロマネスク様式の窓が開いている。この礼拝堂自体が傾斜地に建っていることもあって、張り出した出窓のような後陣部分は、その底部が四角い冠板とアカンサスの柱頭彫刻を持った小円柱によって支えられている。なおアカンサスの厚い葉飾りが重なるこうした仕様は、ロマン=シュル=イゼール(Romans-sur-Isère)にあるコレジアル教会[26.1.20.]の北側のポルタイユ(サン=ジャン門)の、アーキヴォルトを受ける円柱の柱頭彫刻とよく似ている。
 礼拝堂の向かって左手(西)から回ると、その北側の壁の様子を見ることができる。小丘の斜面に建っているために、当然のことながら礼拝堂の北壁は南側のそれよりも高さがある(13.5メートル)。左右両側にやはり高さのある方形の扶壁が地面から持ち送り近くの高さまで立ち上がる。その扶壁の間には大きな半円形の壁アーチが付き、さらにそのアーチの下に礼拝堂の地下を通り抜けるための通路(石段)の出入口が開けられている。この出入口は縦長の長方形で、その上辺には大きなリンテルが据えられている。リンテルの上にはアーチの中央部分にギリシア十字形の小さな開口部が付けられている。この壁アーチは左右において、柱頭彫刻を持つ小円柱が受け止めている。その柱身は向かって左の柱が螺旋文様、右のものは縦縞文様で、柱頭彫刻は左が植物文様、右が説話的テーマであるが、共にかなり摩耗している。この2本の円柱は、それぞれうずくまったライオン(これもかなり摩耗している)の上に立っている。聖堂のポルタイユにおいてポーチを支える柱がライオンの上に立つという仕様は、オート=アルプからイタリアにかけての地域でしばしば見かけるものである。ドロームでは多くはないものの、この近くではロマン=シュル=イゼール・コレジアル教会[26.1.21.]の西ポルタイユに見られる。
 礼拝堂内部には、南側に付けられた石段を数段登り、リンテルが載せられた方形の扉口から入る。短い単身廊に小さな後陣が1つ付くだけのシンプルな堂内である。身廊の東西の長さは7.3メートル、南北の幅は4.6メートルである。天井は水平のモールディングを起点とする半円筒形ヴォールトで、半円形の小さな後陣の上には青く彩色された半ドームが架かり、それを縁取るヴシュールは、葉飾りの柱頭彫刻を持つ小円柱が支えている。その葉飾りの仕様は、外部に張り出た後陣を支える円柱の柱頭彫刻と同じで、それをより簡略化したものである。側壁には南北それぞれに、内部に向けて隅切りされた小さな半円頭形の窓が2カ所ずつ開けられている。堂内の壁面には、13世紀から14世紀にかけてのフレスコ画が描かれている。ヴォールトには青地に数多くの黄色い星が散りばめられている。凱旋アーチには騎士の姿が残されている。この騎士は馬に乗り、白地に赤い十字の描かれた盾を持っている。また側壁に開けられた窓の大きな隅切り部分には青・赤・黄色の縞模様が描かれている。これらの古い壁画は、1960年代になってそれまでの壁画の下から新たに発見されたものである。
Barruol(1992)pp.196-198 ; Ferrier et al.(1989)p.21 ; Thirion et Schricke(1972)pp.356-360 ; Vallery-Radot, et al.(1966)p.135 ; GV.



26.1.16. アルテモネー/サン=マルスラン教会(Église Saint-Marcellin, Arthémonay)
 ロマン=シュル=イゼールから県道D538を北へ12キロでマルゲス(Margès)に至るので、そこから今度は県道D583を東へおよそ2キロである。サン=マルスラン教会は、村の少し東寄りのところにある小丘の斜面に建っている。古くからヴィエンヌ大司教区に属する教区教会で、史料の初出は11世紀にまでさかのぼる。中世の間、教会税(十分の一税)は、トゥルノン(Tournon/現アルデッシュ県)の聖堂参事会が収納した。
 この聖堂は、もともとは単身廊の東に半円形の主後陣とその左右にやはり半円形の小後陣が並ぶというベネディクト派の典型的なロマネスク聖堂建築であった。しかしロマネスク期の身廊は19世紀になって取り壊されてしまい、その代わりに3ベイからなる主身廊と南北の側廊、そして内陣および半円形の大きな後陣が、東西軸が北に少しずれるようにして古い後陣ならびにトランセプト交差部の隣に新たに増築された。したがって、11世紀にまでさかのぼるロマネスク期の古い部分は、トロンプの上に八角形のクーポールが載るトランセプト交差部、その東の主後陣、交差部の南のトランセプトと南側の小後陣である。旧交差部の上に建つ方形の鐘塔は12世紀後半のものであるが、最上段は後の時代に再建されたものである。中段には4面すべてに2つ1組となった半円頭形のベイが開き、2つのアーチを受ける小円柱には東西南北の4面すべてで柱頭彫刻が見られる。ギザギサ文様の冠板と葉の厚いアカンサスの葉飾り(西面)、あるいはライオンらしき動物の彫られた冠板に葉脈の細い葉飾りと人間の頭(南面)、さらに不思議な図形の彫られた冠板にカロリング期を思い起こさせるような縦長の葉脈の連なり(東面)、図形的な冠板に単純なアカンサスの葉飾り(北面)である。現在のサン=マルスラン教会の西ファサード(19世紀)は横幅のある大きなもので、上部は切妻となっている。2本の扶壁の間に半円頭形のポルタイユが付けられており、その半円形のアーチ部分はやはり半円形のモールディングによって縁取られている。ポルタイユの上に並ぶ3つの半円頭形で縦長の窓にも、半円形のモールディングの縁取りが付けられている。身廊部の南北の壁には、それぞれ中ほどの高さまで立ち上がる扶壁と、その上に半円頭形の窓が並んでいる。この身廊部はすべて19世紀のものである。聖堂の東側には3つの半円形の後陣が並ぶ。向かって右側から19世紀の後陣、それよりも背が低い11世紀の後陣、同じく11世紀の小後陣である。中央の古い主後陣に開けられている窓は、ゴシック期のものである。文献によると、一番左(南)側のロマネスク期の小後陣にも窓が開けられていることになっているが、現在は埋められてしまっていて、窓のアーチを組んでいた石だけが残されている。その代わりに今は、主後陣と小後陣の間の壁面を増強した部分に、小さな半円頭形の窓が開けられている。
 聖堂内部は、交差ヴォールトが架かる19世紀の大きな主身廊(3ベイ)とその南北両側にやはり交差ヴォールトの架かる側廊、そしてその東側に内陣および半円形の後陣が続く。壁面やヴォールトはすべて漆喰で白く上塗りされている。19世紀の後陣には半ドームが載るが、その下は木造の板壁が巡らされている。南側には古いロマネスク期の交差部が隣接する。交差部の上には四隅のトロンプの上に八角形のクーポールが載っている。交差部の東は古い半円形の主後陣で、ゴシック期になって開けられた半円頭形の窓がある。交差部の南側はかつてのトランセプトにあたるが、現在は聖具室として使用されており、中に入ることはできない。
Barruol(1992)p.233 ; Ferrier et al.(1989)p.19 ; RIP.


26.1.17a. モンミラル/サン=クリストフ教会(Église Saint-Christophe, Montmiral
 ロマン=シュル=イゼールから北東に延びる県道D52をおよそ10キロ。サン=クリストフ教会は、県道から少し南に入ったところに建っている。19世紀末に建てられた、趣があるとはとても言いがたいモダンで高い鐘塔が否が応でも目に入ってくるのですぐに分かる。しかし聖堂の歴史自体は古く、早くも1068年にはロマン=シュル=イゼールのサン=バルナール聖堂参事会の教会文書(cartulaire)に、その管理下にあるものとしてサン=クリストフ教会の名が見いだせる。12世紀にはこの地に小修道院(prieuré)があった。16世紀の宗教戦争の時に略奪・放火の被害を受け、身廊部のヴォールトも落ちてしまった。
 現在の聖堂の建物のうち、古い部分(後陣と東の鐘塔)は12世紀後半のものとされる。19世紀終わりに古い身廊と西ファサードが取り壊され、20世紀に入って新たに身廊と高さのある細長い鐘塔とポーチが建てられた。古い部分が取り壊される前に撮影された古写真(コミューンのWEBサイトにて閲覧可能)によると、かつての西ファサードには、石段を数段登ったところにポルタイユがあり、扉口の左右に立つ柱頭彫刻付きの円柱の上に半円形のヴシュール(アーチ)が架かっていた。左右の円柱のさらに内側には側柱が立ち、その上に水平のリンテル載り、さらにその上が半円形のタンパンとなっていた。このポルタイユの上には外側に向けて隅切りされた半円頭形の大きな窓が開けられていた。その窓の上は三角形の切妻屋根である。身廊の南北の外壁には末広がりの扶壁が付けられていた。現在、新しい鐘塔の下に開くポーチの扉口は、形こそロマネスク様式を模してはいるが、まったく新しいものである。
 古いロマネスク期の建築部分を見るためには、東側の後陣が見える位置まで回って行かなければならない。主後陣は七角形である。積み石の大きさや形は均一ではない。東面および南北の面に、合わせて3つ半円頭形の窓が開けられているが、これらは元々のものよりも大きく広げられている(19世紀か)。主後陣の向かって左(南)側の半円形の小後陣は19世紀のものであり、半円頭形の大小の窓が上下に並べられて開けられている。主後陣の向かって右(北)側のトランセプト(祭室)は方形で、北側と東側の壁に半円頭形の窓が開けられている。主後陣とこのトランセプトの持ち送りにはモディヨンが等間隔で並び、このモディヨンおよびモディヨンの間に、彫刻が施されている。ただしトランセプトに並ぶ図形的なモディヨン彫刻は古いものではない。主後陣のモディヨンの方は、かなり摩耗して傷んでいるが、動物の頭が多く見られ、またモディヨンの間の帯の部分には、2つ1組となった角状の組紐文様や花弁、向かい合う2匹の動物(ライオンか?)、そして2人の人間の顔が並ぶものなどが見られる。顔が2つ並ぶというものは、近隣地域ではマントのサン=ピエール小修道院付属教会(Église Saint-Pierre de Manthes[26.1.4.])の西ファサードなどに見られる。またローヌ川の対岸(アルデッシュ県)にあるシャンパーニュのサン=ピエール教会(Église Saint-Pierre de Champagne)の北側のトランセプト外壁にも見ることができる。
 聖堂東側の古い鐘塔(clocher-tour)は、ヴィエンヌ様式と言われる方形で高さのある塔で、上部の4面にそれぞれ2つ1組となった半円頭形のベイ(アーチの架かる開口部)が並んでいる。そのアーチは2重のヴシュールとなっている。
 主身廊と南北の側廊からなる内部はまったく新しいもので(20世紀)、身廊や側廊のヴォールト部分と内陣は薄い青色や薄いピンク色で彩色が施されている。古いロマネスク期の後陣は、外部は七角形であるが内部においては半円形で、3つの半円アーチが並ぶアーケードとなっており、アーチは柱頭彫刻付きの4本の小円柱が受ける。それぞれのアーチには内部に向けて隅切りされた半円頭形の窓が開いている。後陣の上には青く彩色された半ドームが載る。交差部は、四隅にある扇状のトロンプの上にクーポールが載る。さらにその上は方形の鐘塔である。
Barruol(1992)pp.240-241 ; Ferrier et al.(1989)p.19 ; SAF(no.5, 1991)pp.272-273 ; RIP.
Web-site:Mairie-montmiral


26.1.17b. モンミラル/サン=マルタン礼拝堂(Chapelle Saint-Martin, Montmiral)遺構
 モンミラルの村から細い間道を南西におよそ1.2キロ行くと、なだらかな斜面の丘の上に背の高い石造りの塔が立っている。高さ20メートルの方形の塔で、モンミラルの塔(Tour de Montmiral)と呼ばれている。11世紀頃に木造によるモット形式の城塞(Château de Montmiral)があったが、その後12世紀末あるいは13世紀初め頃に石造りの城に建て替えられた。現在残る塔は、その石造りの城の遺構である。この城を建設・所有したのは《Bressieux》という名の一族であると言われる。しかし城は14世紀頃には放棄されたようである。この塔から直線距離にしておよそ500メートル東に、サン=マルタン礼拝堂の遺構が残っている。モンミラルからだと、県道D323を南へ約2キロでペレー(Perey)という小さな集落となる。そこから細い間道を右(西)に300メートル進んだところで《Chemin de la Chapelle》という標識に従って、今度は左(南)に折れると、250メートルほどでサン=マルタン礼拝堂に至る。イゼールの谷や山並みを広く見晴らすようにしてなだらかな斜面に建っている。12世紀には今触れたモンミラルの城の支配下にあったが、その後は教区教会となった。
 この礼拝堂は短い長方形の身廊と、その東に接続する五角形の後陣からなる。1050年の史料にその名が見えるので歴史は古いが、今ある建物全体の建設は13世紀頃とされる。南フランスにおいては、時代的にはロマネスク末期、あるいはゴシック初期にあたる。西ファサードを除く身廊部分は17世紀に改修されている。しかし身廊ならびに後陣のヴォールトは落ちて無くなっており、後陣の壁面及び外壁に付けられた扶壁にまで崩壊が及んでいる。身廊と後陣の間に立つ鐘楼は、修復の手が加えられていることもあって比較的良好な状態である。上部は切妻形で、その下に鐘を吊すための半円形のベイが2つ並んでいる。
 切妻形の西ファサードは、さまざまな大きさの石が不規則に積み上げられたもので、中央にロマネスク様式の半円頭形のポルタイユが開く。半円アーチのヴシュールは茶色いクラヴォー(迫石)がきれいに組まれたものである。その上には半円頭形の細長い開口部(窓)が付けられている。以前はこの西ファサードの北側に、司祭館の西壁が寄りかかるようにして残っていたが、20世紀になって行われた修復工事の際に取り払われて、今はすっきりとした姿になっている。身廊部南側の壁には中ほどに大きめの窓が開き、後陣部との境となっている扶壁の隣に半円頭形の出入口が付けられている。これはこの礼拝堂の南側に古くからあった墓地との行き来に使用されたものであろう。一方、身廊北側の壁には開口部はなく、かつて司祭館との間に開いていたと思われる大きな出入口のアーチの痕跡だけが残されている。後陣は五角形で、各面の間には4つの扶壁が放射状に付けられている。最東面には方形の窓が開けられているが、上半分は崩落してしまっている。
 礼拝堂内部は荒れていて半ば物置のような状態である(個人所有のために入れない)。後陣には、かつてそのヴォールトを支えていたリブの一部分と、それを受けるキュ・ドゥ・ランプが残されている。
SAF(no.12, 1999)pp.114-115.


26.1.18. シャティヨン=サン=ジャン/ジロン礼拝堂(Chapelle de Gillons, Chatillon-Saint-Jean)
 シャティヨン=サン=ジャンは、ロマン=シュル=イゼールから東へ約10キロであるが、ジロン礼拝堂(またはサン=テオバルド・ドゥ・ジロン教会/Église Saint-Théobald de Gillons)へは、シャティヨン=サン=ジャンからさらに県道D123を北へ1.2キロ行き、D184に入る。そこからやはり1.2キロほど進むと、クレリヴォー(Clérivaux)という地区に入り、さらに県道D184から西に折れる間道(クルマがやっと行き違いできるほどの細い道)があるので、それを1.5キロほど西に進む。
 この場所は、古代から聖域とされ、小さな神殿もあったようである。それを引き継いだ初期キリスト教時代の礼拝堂の遺構(6~7世紀頃)も発見されている。12世紀になって、アルルのモンマジュール修道院から来たベネディクト派修道士たちがこの地にサント=マリー小修道院を創建した。その後ロマン=シュル=イゼールのコレジアル教会の所有するところとなり、同教会の1155年の財産目録文書(cartulaire)にその名が見いだせる(それが1160年であるとする文献もある)。15世紀には聖テオバルド(Saint-Théobald)に捧げられた教区教会となり、ヴィエンヌ大司教区に属した。宗教戦争の際には大きく被害を受け(1568年)、その後何度も修復工事が行われた。フランス革命の後、1797年に国有財産として売却された。それでも洗礼式や葬儀などの祭式は引き続き時々は行われていたようである。しかしそれも1952年の大嵐の際に聖堂の屋根が崩落するまでのことで、その後は放置されていた。2006年から2010年にかけて大がかりな修復工事が行われ、現在は個人所有ではあるが、ミサや結婚式の他、コンサート、展覧会、講演会などの各種イベントに利用されている。
 聖堂は、南側が現在の所有者の住居に接しており、後陣側からの様子は見ることができない。壁面は長年の傷みと修復の繰り返しのために、いろいろな形の石が不規則に積まれたものとなっている。上部が三角形の鐘楼は、聖堂の南東端に、南北方向に向けて立っていて、鐘を吊す半円頭形のベイが2つ並んでいる(最初の鐘楼は凱旋アーチの上に立っていたと思われる)。切妻形の西ファサードには、上部に小さな丸い窓が開けられている。ポルタイユはその下にあって、半円形のヴシュールが架かる。それを左右で受け止めていた円柱は現在は失われており、インポストと基壇のみが残されている。長方形の扉口の上には、少しいびつな形をした大きなリンテルが載るが、これは古い墓石を再利用したものである。そのリンテルの中央にはギリシア十字が彫刻されている(イゼール県マルナンのサン=ピエール教会のポルタイユとよく似ている)。この西ファサードには、北西側の壁に末広がりの扶壁が付けられている。
 内部は単身廊形式のシンプルな形で、身廊部分に側廊や側室などはない(ただし内陣の南に礼拝室がある)。壁面は、開口部の石の枠組みや凱旋アーチとそれを受ける円柱などを除いて、2006年からの修復工事によって全て漆喰で上塗りされている。身廊部分の建築自体は12世紀の創建当時のもので、もともとは3ベイからなっていたが、現在は横断アーチなどはなくなり、ベイの区切りは分からない。天井は2006年からの修復工事で新たに架けられた切妻形の木組みである。南北の側壁には、半円頭形の開口部がそれぞれ2カ所ずつ開けられている。この開口部(窓)は、外側から見るとまるで銃眼のように細長いが、内部に向けては大きく隅切りされている。身廊と内陣(後陣)の間に架かる半円形の凱旋アーチは、左右を柱頭彫刻付きの円柱が受ける。その柱頭彫刻は厚さのあるアカンサスで、特に南側のそれでは葉飾りに実が付いており、さらに一番上に不思議な表情の人間の顔があってこちらを見つめている。内陣(後陣)は平面形で、中央には内部に向けて隅切りされた細長い長方形の窓が開けられている。天井は身廊と同じく2006年からの修復工事によって架けられた木造のものである。この内陣の南には15世紀頃に増築された方形の礼拝室があるが、これはかつてこの地の領主たちが私的に使っていたものである(chapelle seigneuriale)。ゴシック様式で、天井は交差リブ・ヴォールトとなっている。この礼拝室ではロマネスク期以前の6~7世紀頃の古い礼拝堂の遺構(小後陣)が発掘されていて、現在ではそれを床のガラス越しに見ることができる。
 堂内には、ロマネスク期(12世紀頃)の古い柱頭が置かれている。かつて洗礼盤の土台として使用されていたが盗難にあって行方不明となり、その後トリオール(Triors/ここから南へ約2キロ)の修道院の手に渡って、ここジロンに戻された。摩耗が進んではいるが、その彫刻はユニークなものである。水平の帯状区画が上下に5つ重ねられている。一番下から上に向けて順に、横並びになった線刻のアカンサスの葉(あるいはパルメット)、交互に並ぶ縦長の卵形文様(あるいは植物の実)と槍の穂(あるいは矢じり)、等間隔に並ぶ縦筋の列、再び卵形文様と槍の穂の列、そして縦溝の列、である。左右の角には、帽子のようなものを被った縦長の人間の不思議な顔が、上4つの帯を縦断する形で付けられている。この柱頭と非常によく似たものが、ロマン=シュル=イゼールのサン=バルナール・コレジアル教会[26.1.20]のロマネスク期の身廊に見られる。西から3番目のベイの北壁のトリフォリウムの下に付けられたアーケードにおいて、そのアーチの1つを受ける円柱の柱頭がそうである。このコレジアル教会の柱頭の方が、保存状態は格段に良いが、それでも12世紀中頃のものとされる。ジロン礼拝堂の柱頭が、ロマン=シュル=イゼールのコレジアルのそれをまねたものなのか、あるいはその逆なのか、そのあたりのことはよく分かっていない。そもそもジロン礼拝堂の柱頭が、もとからこの礼拝堂の建築に使われていたものなのか、あるいはそれに先立つプレ・ロマネスク期の建物のものであったのか、そうした点についても不明である。形もその来歴も、多くの謎に包まれた不思議な柱頭彫刻である。
Barruol(1992)p.234 ; Serrières(sans date); RIP.
Web-site:Gillons, une chapelle romane du 12ème siècle.


26.1.19. ペラン/サン=タンジュ教会(Église Saint-Ange, Peyrins)
 ロマン=シュル=イゼールから県道D538を北へ5キロでペランとなり、D112を東へ折れて約1.4キロのところで《St-Ange》の標識に従って北に入る。細い山道を2.2キロ進むと再び《St-Ange》の標識があるので左(西)に折れる。引き続き細い間道をおよそ2キロ北に行くと、サン=タンジュ教会に至る。イゼールの谷やローヌの山々を遠くまで一望できる見晴らしのいい高台に建っている。
 この場所には古代にはヴィラ(Villa Gessiani)があった。サン=タンジュ教会の名は、995年のロマン=シュル=イゼールのコレジアルの教会文書(Cartulaire)の中に見いだせる。現在ある建物のうち、11~12世紀のロマネスク期にまでさかのぼるのは、内陣および後陣と鐘塔である。身廊部分は後の時代に改築されたものである。後陣の外部は五角形で、東と南の2面に、隅切りされた半円頭形の窓が開けられている。とりわけ東面のそれは、大きな切石できっちりと美しく縁取られている(窓自体は今は埋められていて採光の役割は果たしていない)。この後陣の下半分は大きさの均一な四角い切石が積まれているが、上半分は石の形や大きさがまちまちである。内陣の上に、南北に長い方形の鐘塔が立つ。その上部には方形の開口部が、東面に2カ所、南北面にはそれぞれ1カ所ずつ開けられている。鐘塔の石積みは大きさ・形とも不均質である。西面には銃眼のような細長い開口部が2カ所開けられていて、この部分は11世紀のものと考えられている。銃眼様の開口部の間には、塔に外部から入るための出入口が付けられているが、これはもっと後の時代のものであろう。鐘塔の南面の下の方には、やはり窓が開けられているが、その半円頭形のアーチ部分は組石ではなく一枚石の小リンテルである。身廊の外側は、南北においてそれぞれ様相が異なる。墓地に面した北側の壁は、不規則な石積みがそのまま露わになっていて、墓石のいくつかが壁面にそのまま埋め込まれている。北側に張り出ている側室(聖母の礼拝室)は、19世紀に増築されたものであるが、その壁面にも墓石が埋め込まれている。鐘塔の下(すなわち内陣部)の北側に増築されている部屋は聖具室である。身廊南側の壁は、漆喰で上塗りされていて石積みは見えない。中ほどのところに尖頭形の大きな窓が開けられている。鐘塔のすぐ隣には縦長の戸口が付けられていて、内部との行き来ができるようになっている。上部が切妻形の西ファサードは、大きな切石がごつごつと積まれており、大きな丸窓の下に半円形のヴシュールが架かるポルタイユとなっている。シンプルな扉口で、タンパン部分には大きな無装飾のリンテルが据えられているだけである。
 内部は単身廊形式で、大きな張り出しアーチ(凱旋アーチに相当)から東に内陣のベイと後陣が続く。身廊の北東の端に、19世紀に増築された「聖母の礼拝室」がある。身廊は古いものではなく、さらに最近の修復によって白く上塗りされている。身廊部は三角形の傾斜天井となっていて、横断アーチ様の木製の梁が1本架けられている。身廊南側に開けられた大きな窓には、1943年に色鮮やかな大天使ミカエルのステンドグラスがはめられた。内陣部は南北の壁にそれぞれ大きさの異なるアーチが2つずつ並んでいる。そのアーチを受けるのは南北ともに3本の柱であるが、そのうち最も後陣に近い東の柱は、北側では無装飾の柱頭を持つ円柱であるが、南側では四角いピラストルとなっている。それはやはり無装飾の柱頭を持つが、柱身には縦長の溝が付けられている。後陣は外側にあっては五角形であったが、内部は半円形となり、水平に延びるコーニスの上に半ドームが載る。窓は東側と南側に開けられているが、東側のものは塞がれている。後陣には金箔の装飾が施された19世紀の祭壇が置かれている。祭壇の中央には5本の円柱が立ち、その上に青色と金色で彩色された小さな半ドームが載り、一番上には光を放つ十字架が据えられている。
 ペランのサン=タンジュ教会は、フランス革命に際して国有財産として接収された後、競売にかけられた。20世紀初め頃まで再び教区教会として使われていたが、その後はペランのコミューンの所有となり、1984年には歴史的建造物(Monument Historique)に指定された。現在はコンサートや芸術作品の展示会などに活用されている。
Ferrier et al.(1989)p.18 ; La Base Mérimée.


26.1.20. ムール=サン=テュゼーブ/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame, Mours-Saint-Eusébe
 ロマン=シュル=イゼールから県道D538を北へ3キロである。ムール=サン=テュゼーブのノートル=ダム教会は、D538とD608が交わるロン・ポワン(ロータリー式交差点)の北東角に位置し、ロン・ポワンからD608に折れて少しのところにポルタイユに面する教会前広場がある。古代ガロ=ローマ時代にはここに大きなヴィラ(villa Arratica)があった。ノートル=ダム教会の名が史料(Cartulaire de Saint-Barnard)に現れるのは1097年である。14世紀にはヴィエンヌ大司教区に属する教区教会となっていた。12世紀のロマネスク期にさかのぼる部分は、鐘塔の下部と身廊南側の壁の下半分である。19世紀になって、鐘塔の東側にあった古い後陣を取り壊し、新たに聖堂の西側に三つ葉形の後陣を建設した。県道D538側から見えるのは、この新しい三つ葉形後陣である。中央の後陣には半円頭形の非常に大きな窓が開けられている。現在のポルタイユは聖堂の東端に立つ鐘塔の下に開いている。半円アーチの架かる大きな扉口で、左右両側に太い方形の側柱が立っている。このアーチのすぐ上には半円頭形の小さな窓が開けられていて、半円アーチとそれを左右で受ける小円柱によって縁取られている。その小円柱には口から植物の葉を吐き出す人間の顔が彫刻されているが、ゴシック期以降のものと思われる。鐘塔の上部は、各面に鐘を吊す半円頭形のベイが2つずつ並ぶ四角形の中段の上に、八角形の上段が載り、一番上は尖塔である。ただし、鐘塔のこの中・上段部分はすべて19世紀のものである。聖堂には、身廊南側の向かって左隅にも扉口があり、無装飾の半円形ヴシュールとタンパンが上に載せられている。このヴシュールを左右で受ける柱は、向かって左側が円柱、右側が多角形の柱である(ただし摩耗が進んでいる)。これらの柱の柱頭彫刻は古いもので、左側ではまるでこけしのような人物が並んでいる。摩耗していてその顔ははっきりとは分からない。また向かって右側の柱頭彫刻は、幾何学模様のような植物の葉飾りである。
 今日、このノートル=ダム教会の中は、「宗教芸術博物館」(Musée d'art sacré)となっている。入口は身廊南側の扉口である。博物館には、さまざまな種類の聖具類や聖衣類、奉納画、宗教画などが所蔵・展示されている。博物館ということで、内部はきれいに整えられているが、聖堂東端の内陣の上に立つ鐘塔のクーポールとそれを支えるアーケード部分は、12世紀のロマネスク期のものである。クーポールの下から上を見上げると、四方に壁アーチが付けられた旧内陣部分の四角形の壁の上に、八角形を形作る8つの半円アーチからなるアーケードと、それを支える8本の小円柱が並ぶ。それに加えて、4つの角部分(つまり四隅)には、2本で1組となった小円柱が立ち、それぞれ半円アーチの内側で半月形のリンテルを受け止めている。都合16本の円柱とそれが支える8つのアーチが、四角形の壁面の上で八角形の壁面を構成し、その上のクーポールを支えているわけである。なおこの八角形のアーケードは、東面のみ半円頭形の窓が開いており(外から見て鐘塔のポルタイユのすぐ上にある窓)、それ以外の面のアーチはすべてニッチである。また16本の小円柱の柱頭彫刻はみな植物の葉飾りである。
Barruol(1992)p.242 ; Ferrier et al.(1989)p.18 ; Planchon et al.(2010)pp.461-462 ; GV.; RIP.


26.1.21. ロマン=シュル=イゼール/サン=バルナール・コレジアル教会(Collégiale Saint-Barnard, Romans-sur-Isère)
 ロマン=シュル=イゼールは、ドローム県の北部に位置し、県庁所在地のヴァランスからは北東へおよそ17キロである。古くからイゼール川の重要な渡河地点であるとともに、ローヌ渓谷を南北に行き来するルート(すなわちブルゴーニュとプロヴァンスをつなぐルート)と、ローヌ地方からグルノーブル、そしてアルプス方面へとつながる東西のルートの2つが交わる交通の要所でもあった。また中世以来、ヴィエンヌ大司教区の最南端に位置していたにもかかわらず、歴代のヴィエンヌ大司教が自らの勢力確保のための拠点の1つとして重要視してきた都市でもあった。サン=バルナール・コレジアル教会の歴史も、838年にヴィエンヌ大司教であった聖バルナール(聖780年頃-841年頃)が、イゼール川のほとりにベネディクト派の修道院を創建したことから始まる。バルナールは780年頃にリヨンあたりの有力家系のもとに生まれた。797年にはシャルルマーニュの軍に加わり、あちこちを転戦している。結婚して子供もいたが、7年の結婚生活の後に妻子と別れて修道士となり、ノートル=ダム=ダンブロネー修道院(Abbaye Notre-Dame d'Ambronay/現アン県)を創建し、そこの修道院長となった。810年にヴィエンヌの大司教となった後、このロマンの地に修道院を創建し、その付属聖堂はペトロとパウロ、そしてヴィエンヌの3人の殉教者たち(Trois Doms)に捧げられた。バルナールは841年1月22日に亡くなり、遺骸はこの聖堂に埋葬された(伝説によると聖堂の排水溝の下に埋められたとも伝えられる)。バルナールは944年に列聖される。彼の聖遺物は多くの巡礼を集めるようになり、11世紀~12世紀頃には聖堂は彼の名を冠するようになるであろう。
 ロマン=シュル=イゼールのコレジアル教会の歴史は、破壊と再建が何度も繰り返されるという波乱に満ちたものである。9世紀前半のバルナールの時代に建てられた最初の聖堂は、860年頃にノルマン人の襲撃によって破壊された。920年頃に再建されたのが2番目の聖堂となる。しかしこの頃から、サン=バルナールの修道院とヴィエンヌ大司教ソボン(Sobon)とが対立関係となり、932年になってヴィエンヌ大司教側に与するシルヴィオン・ドゥ・クレリュー(Silvion de Clérieu)という領主によって修道院と聖堂が焼かれてしまった。その後再建された3番目の聖堂は、11世紀に入る頃(または10世紀のうち)から聖堂参事会の管理するところとなり、聖堂参事会教会すなわちコレジアルとなる。1025年にサン=バルナール修道院長となっていたレジェ(Léger/彼はシルヴィオン・ドゥ・クレリューの曾孫にあたる)が、1031年からヴィエンヌ大司教を兼任し、この3番目の聖堂が火災で焼けてしまった後、再び聖堂の再建に乗り出すこととなった。彼は聖堂の南西角にクロワトルを建設した(イゼール川に架かる最初の橋を建設したのもレジェである)。なお、このようにヴィエンヌ大司教がサン=バルナール修道院長を兼任するやり方は、以後フランス革命まで続くこととなる。
 レジェは1070年に没するが、1134年になると、今度はヴィエンヌ大司教エティエンヌと争っていたアルボン伯のギーグ・ドファン(4世/Guigues Dauphin)が修道院とコレジアルを、ロマンの街と共に破壊し焼き払った。1218年からヴィエンヌ大司教兼サン=バルナール修道院長となったジャン・ドゥ・ベルナン(Jean de Bernin)は、その翌年、ギーグによって破壊されたロマネスク期の聖堂の土台の上に、より大きなゴシック様式の建物を大々的に建設することにした。1238年には内陣とトランセプトが建設された(ブルゴーニュ・ゴシック様式と言われる)。引き続き身廊の上部が作られ、1266年にジャン・ドゥ・ベルナンが没した頃には、内陣が色鮮やかに彩色された。またその後の14世紀初め頃に、身廊南側にあるサン=モーリス礼拝堂(今のサン=サクルマン礼拝堂の東部分)が、最初は聖堂参事会室として作られた。14世紀も半ばになると、「ドファン・ドゥ・ヴィエノワ」であるアンベール2世(Humbert II, 1312?-1355)は、跡継ぎがいなかったこともあって、ドフィネの領有権をフランス国王フィリップ6世に売却し、この地はフランス王家のものとなった。1349年3月30日、領土移譲の調印セレモニーが行われたのはここサン=バルナール・コレジアル教会においてであった。15世紀初め(または半ば頃)、サン=テティエンヌ礼拝堂(今度はサン=サクルマン礼拝堂の西部分)が増築されるとともに、さらに身廊の南北両側に並ぶニッチ状の祭室もこの頃から17世紀にかけて次々と作られていった。
 16世紀半ばには、フランスの他の聖堂と同様に、宗教戦争の災禍がコレジアルを襲った(とりわけ1562-1567年)。聖堂は大きな被害を受け、11世紀に作られ、12世紀に再建されたロマネスクのクロワトルもかなり損傷した。崩落した身廊のヴォールトを架け替えるなど、コレジアルの修復工事は18世紀前半まで断続的に進められた。17世紀後半に修復工事に関わったシャルル・ドゥ・リオヌ(Charles de Lionne)はロマンの有力一族の出身で、コレジアルの聖具担当参事会員(大司教・修道院長に次ぐポスト)であったが、その死に際して、自分が所有する16世紀の「キリスト受難の壁掛け」(Tenture du Mystère de la Passion du Christ)をコレジアルに遺贈した。それは現在はサン=サクルマン礼拝堂において見ることができる。1720年には、身廊西端にオルガンを据えるためのトリビューンが作られている(ただしオルガンが実際に据え付けられたのは1843年)。フランス革命の時に、コレジアルは一時的にプロテスタントの寺院として使用されたが、1801年に再びカトリックに戻っている。1840年、歴史的建造物の視察官でもあったプロスペール・メリメが、このコレジアルを歴史的建造物の指定リストに登録した。しかしそれにもかかわらず、市当局は1857年から1863年にかけて、河岸道路の建設のためにロマネスク期にまでさかのぼる貴重なクロワトルを愚かにも取り壊してしまった(1940年には中世に架けられた古い橋もダイナマイトで破壊され、その時には衝撃で聖堂のステンドグラスが被害を受けたと言う)。コレジアルが実際に歴史的建造物(Monument Historique)に指定されたのは1942年のことであった。同時に、コレジアルはロマン=シュル=イゼールのコミューンの所有となった。2000年には西ファサードのステンドグラスが新たにはめられた。今日、ロマンのコレジアルは国際靴博物館などと共に、街のシンボルとして多くの観光客が訪れる場所となっている。
 コレジアルの多くの部分、とりわけ高さのある身廊上部、トランセプト、そして内陣および後陣部分は、ヴィエンヌ大司教兼サン=バルナール修道院長ジャン・ドゥ・ベルナンによって建てられた13世紀後半のゴシック期のものである。トランセプトから東側はブルゴーニュの影響を受けたものであるが、身廊の下部と西ファサードなど(すなわちロマネスク期の部分)は、プロヴァンスからの影響が強いと言われている。まず聖堂の外側から見てゆこう。
 西ファサードにはかつてはポーチを兼ねたロマネスク期の鐘塔が立っていた。現在のポルタイユは、ファサード中央に、近代になって組み直された3重の半円形ヴシュールの架かる扉口が開き(タンパン彫刻はない)、その両側にそのヴシュールのアーチを冠板と柱頭を介して受ける円柱と、人物彫刻の付けられた方形のピラストルが基壇の上に並ぶ。ヴシュールの左右両側には、かつてここにあったロマネスク期のポーチを支えていた太いアーチの一部(起点部分)が残されている。そしてさらにその両側には半円頭形の縦長のニッチのアーチがある。このポルタイユ部分は左右対称の非常にシンメトリックな意匠となっている。扉口の左右に並ぶ側柱についてであるが、まず細長い小円柱は、柱身が縦筋文様、重なり合う葉飾り文様、組紐文様、ひねり紐文様などであり、一番上の冠板には、摩耗あるいは破壊されているものもあるが、連続するパルメット装飾が彫刻されている。北側に並ぶ小円柱のうち、扉口のすぐ隣にある円柱の柱頭には、「エマオの巡礼」にはさまれて立つキリストがいる。3人とも顔は削り取られているが、皆巡礼の袋を首から下げている。中央のキリストの頭には十字の付いた光輪が輝いている。扉口を挟んで反対側(南側)に立つ円柱の柱頭には、ドラゴンと戦う人物がいる(顔は削り取られている)。その人物はドラゴンの羽を左右の手で力強くつかんでいる。人物柱を間にして立つもう1つの円柱には、両側をヘビにはさまれた女がいる(やはり顔は削られている)。胸が露わになり、両手でヘビをつかんでいる。これは色欲・淫乱(luxure)を表すもので、ロマネスク彫刻ではおなじみのテーマである。側柱の最も外側の円柱の柱頭彫刻は、北(向かって左)側のものは、太いツルを巻く花飾りであり、南(右)側のものには、丸い縁取りの中に彫られたライオンが2頭いる。そのうち保存状態の良い方のライオンは、大きく目をむき、豊かなたてがみと後ろ足のするどい爪を持っている。
 ポルタイユの人物柱に彫刻されているのは、左右にそれぞれ2人ずつの使徒で、残念ながら頭部は破壊(削り取られて)いるが、北の柱の外側の人物はペトロ、南の柱のやはり外側の人物はヨハネである。内側の人物についてはそれぞれパウロやヤコブあるいはアンデレではないかとも言われる。これらの人物は左右ともにライオンと思われる動物の上に立っており、また頭の上にある柱頭彫刻は、非常に豊かで美しいアカンサスの葉飾りとなっている。このポルタイユの側柱に見られる彫刻は、それ自体は12世紀半ばのものであり、そこには全体的にアルル(サン=トロフィーム)やサン=ジルといったプロヴァンスの影響が認められるのであるが、それにしてもこのポルタイユには、円柱や人物柱の配置に多少の不自然さが見られることから、もともとこのような意匠だったのではなく、ロマネスク期の鐘塔とポーチが取り壊された際か、あるいはもっと後の時代になって、今のような形に組み置かれものであると推測される。その正確な年代は分からないが、16世紀~17世紀頃のことであったとも考えられている。西ファサードのポルタイユの上には、方形の窓が3つ並ぶ壁面をへて、尖頭形のモールディングに縁取りされたゴシック様式の大きな尖頭形の窓が2つと丸窓が開き、一番上は切妻となっている。
 西ファサードの北側には13世紀末~14世紀初めにかけての方形の鐘塔が立つ。この塔の南西角には塔に登るための階段が内部に付けられた多角形の小塔(15世紀)が付属している。鐘塔自体は水平のモールディングによって4段構えとなっていて、一番下の段は内部が3階からなる(この部分はロマネスク期のもの)。上の2つの段にはフランボワイヤン様式のランプラージュで装飾された尖頭形の窓が4面すべてに開けられている(ただし西面のそれにはランプラージュは見られない)。最上部には4面ともに縦に細長いゴシック様式のアーケード装飾が並べられている。
 西ファサードから時計回りに聖堂の北側に回るとモーリス・フォール広場となり、数階建ての建物が並んでいるために、上に突き出た鐘塔上部を除くと直接コレジアルの姿は見えないが、広場の中ほどのところに狭い通路があって、17世紀に作られた鉄の門扉の奥にある「サン=ジャン門」(Porte Saint-Jean)に通じている。これはコレジアルの身廊北側にあたり、かつて街と直接行きするために付けられた出入口であった(現在は通常閉じられている)。扉口の上には、3重の半円形ヴシュールからなるアーキヴォルトが架かり、そのうち一番外側のヴシュールはギザギザの歯車形彫刻の施されたアーチとなっている。さらにその上には同じような歯車形の水平の帯が延びている。アーキヴォルトは左右において無装飾のインポスト(19世紀)とロマネスクの柱頭を介して円柱が受けとめる。その柱頭の彫刻は3段構えとなったアカンサスの厚い葉飾りである。この仕様は、ロマン=シュル=イゼールの周辺地域では、サン=ドナ=シュル=レルバスのサン=ミシェル礼拝堂[26.1.15b.]における、外側に張り出た小さな後陣を支える円柱の柱頭とよく似ている。「サン=ジャン門」の扉口は、その左右に接する建物の壁によって、アーキヴォルトの向かって左端部分が隠されてしまっている。またこの扉口の左右には、西ファサードと同じように、背の高いニッチの半円頭アーチが付けられているけれども、これもまた隣接する建物の壁によって、現在は向かって右側のもの(しかもその半分)しか目にすることができない。なお、この「サン=ジャン門」のすぐ外側(北側)には、フランス革命の時まで、「サント=マドレーヌ礼拝堂」という小さな聖堂があった。その後陣を飾っていた円柱の柱頭彫刻が残されている。アダムとイヴ、善悪の知識の木、復活したラザロおよびマルタとマグダラのマリアなどである。ただしそれらは「サン=ジャン門」に隣接する個人所有の建物の奥にあって、残念ながら現在は見ることができない。
 コレジアルの外側をさらに東側に回ると、高さのあるゴシック様式の後陣と、その南北に付けられたこれもまた同じ高さのトランセプトの堂々たる姿が目に入ってくる。後陣は五角形で、その各面の境に、屋根まで立ち上がる扶壁が放射状に付けられている。アルク・ブータン(フライング・バットレス)は見られない。後陣の北側(トランセプトの北翼との接続部分)には、高さのある方形の細長い小塔が立っている(17世紀にはその上に尖塔が載っていた)。銃眼のような細長い開口部が東面と北面に塔頂部まで縦に(東面に9つ、北面に7つ)ずらりと並んでいる。同様の小塔は、トランセプト南翼の南西角にも付けられており、やはり銃眼風の細長い開口部が縦に8つ並んでいる。この銃眼は小塔の南東面にだけ開けられ、小塔西側には何もないのは、19世紀に至るまでトランセプトの西側にクロワトルや聖堂参事会の建物が建っており(そしてもちろん今のような河岸道路もなかったので)、恐らく西側方向を同時に「防御」する必要性がなかったためではないかと思われる。後陣とトランセプトの下には、ギリシア神殿風の切妻屋根を持つアルコソリウムが3つ付けられている。また上段と中段にはランプラージュ(トレーサリー)で装飾された尖頭形の窓が開けられている。後陣の窓は、上段のものも下段のものも、尖頭形のモールディングで縁取られている。上段のものは窓の左右に細長い円柱が付けられているのに対して、より縦長となった下段の窓では左右の円柱はすべて失われている。後陣とトランセプト南翼との間には、高さがトリフォリウムまである方形の小さな建物が増築されている。付けられている窓は少なくてすべて小さいが、内部は3階建ての礼拝室となっている。
 トランセプト南翼の南壁は、水平のモールディングによって上下5層に区分けされており、下から2層目と3層目にまたがって、後陣部と同じような尖頭形で縦長の窓が2つペアーになって開けられている。その上の層には方形の小さな窓が2つ一組になって3組並び、一番上の層には尖頭形の大きな窓が開いている。この窓は縦に長い3つの尖頭形のランプラージュ(中央のランセットが一番背が高く、左右にそれより低いものが並ぶ)という仕様で、これは身廊部南壁の上部(トリフォリウムの上)においても連続している。それらの窓は、屋根まで届く方形の扶壁の間に1つずつ開けられていて、その下のトリフォリウムの層ではトランセプトのものよりも少し大きめの方形の窓が3つずつ(ただし最も東側のベイでは2つ)並んでいる。なおトランセプト南翼の西面の壁の上部には、かつてそこにゴシック様式の窓(尖頭形の窓枠の中に尖頭形で縦長のランセットと円形のランプラージュが組み合わされたもの)が開けられていたが、後に埋められてしまい、今はその枠組みだけが残されているのが見える。身廊南壁下部の、トランセプトに隣接する背の低い建物は、サン=サクルマン礼拝堂である。これは14世紀から15世紀にかけて相次いで作られた東側のサン=モーリス礼拝堂(ベイ2つ)と西側のサン=テティエンヌ礼拝堂(ベイ1つ)2つが合わさったもので、壁面には、尖頭形の縁取りの中に丸いランプラージュがさまざまな形で組み合わせられた大きな窓が並んでいる。
 身廊部南壁の、方形の窓が並ぶトリフォリウムより下の部分は、1134年にアルボン伯ギーグ・ドファンによって破壊される前のロマネスク期のものである。ゴシック期のものよりも細い扶壁と、その間に付けられた半円頭形のアーチが3つ並ぶ。そのアーチの中にはもともとはやはり半円頭形の窓が開けられていたが、現在はすべて埋めて塞がれている。この部分にはロマネスク期にさかのぼるクロワトル(回廊)があったが、前述のように19世紀半ばにロマン市当局によって取り壊されてしまった。西ファサード南西角の太い扶壁は、取り壊されたクロワトルの石材を再利用したものであるとも言われる。失われたクロワトルの平面プラン(土台の跡)は、この場所の路面に表示されていて今でも分かるようになっている。
 コレジアルの内部に入ってみよう。そこは4ベイからなる身廊(東西35.5メートル、南北10.7メートル)の東にトランセプト(南北33メートル)、そして交差部のさらに東に内陣と後陣が続く、高くて奥行きのある空間である。身廊の南側にはサン=サクルマン礼拝堂が接続する。側廊などはない。すでに述べたように、後陣・内陣とトランセプト、そして身廊のトリフォリウムから上の部分が、13世紀のゴシック期のものである。身廊のゴシック化の工事は、東の内陣の側から始まり西ファサード側へ向けて進められていったと考えられている。
 身廊は、2本で一組となった細長いスリムな壁付き円柱とその上に架かる横断アーチによって4つのベイに分かれ(ベイの大きさは均一でない)、その天井は4分交差リブ・ヴォールトである。壁面の平面プランは一番上がランプラージュで装飾された尖頭形の高窓で、その下はトリフォリウムとなっていて、小円柱に支えられた小アーチ(よく見るとわずかに尖頭形)の連なるアーケードである。さらにその下には水平のモールディングが付けられている。それは東側の2つのベイではパルメット様の装飾の連続であるが、西側の2つのベイでは無装飾となる。そのモールディングから下が12世紀のロマネスク期の壁面で、北側も南側も共にその上部はニッチ(かつては窓が開けられていた)の半円形アーチが連なるアーケードとなっており、それらのアーチは柱頭彫刻を介して壁付き円柱が受け止めている。ただし、この円柱の長さは1メートル程度のものなので、それらはいわば少し長めのキュ・ドゥ・ランプだとも言えよう。かつては途中で止まらず、床まで下りていたと考えられる。身廊には南北の壁に、それぞれ11のアーチが並び(ゴシックの壁付き円柱に遮断されたものも含む)、南北合わせて16のロマネスクの柱頭彫刻がある。
 西ファサードのポルタイユの彫刻群と共に、ロマンのこのコレジアルにおいて注目すべきは、身廊に並ぶアーケードのアーチを受けるこれらの柱頭彫刻である。16の柱頭のうち、11はアカンサスやパルメットなどの植物の葉飾りとなっている。北側のアーケードの、西から4番目のものは「受胎告知」である。柱頭の南側の面いっぱいに羽を広げた天使ガブリエルが、右手で天を指さしながらマリアに受胎を告げている。左手を挙げるポーズのマリアは、驚きと共にその知らせを受け入れている。天使の羽の模様、マリアの衣装のひだなどが細かく彫刻されている。西から5番目は、胸を露わにした女が左手で「天秤」を持って歩みを進めているが、その先には裸の小さな人物が体をくねらせて、アカンサスの葉の下に頭を横倒しにし、大きく開いた口から舌を出している。通常「最後の審判」では大天使ミカエルが魂の罪の重さを量る天秤を持つが、ここではいつもなら裁きを受ける側の色欲の女がそれを持っている。彼女は舌を出す人物に天秤を見せつけることで罪の重さ知らしめようとしているのであろうか。いずれにしてもなかなか解釈が難しい柱頭である。西から6番目の柱頭はさらにユニークなもので、図形的なパルメットや卵形文様などが並べられた円形の帯状の層が4つ重ねられ、その左右の角には大きなマスク(人面)がそれらの層をまたぐ形で2つ張り付いている。縦に長い不思議な顔で、まるで鬼のように見開いた目(瞳孔も大きな穴となっている)、三角形の巨大な鼻、両側に開いた耳、への字に閉じた口、上に向けて逆立つ髪の毛など、その表情は大変に険しい(あるいは気難しい)。非常にユニークで、このコレジアルの中でも際だって異色な柱頭彫刻である。この柱頭に大変によく似たものが、ここから約14キロ北西にあるシャティヨン=サン=ジャンのジロン礼拝堂[26.1.18.]の堂内に置かれている。かつてはその上に聖水盤を置くために使われていたもので、かなり摩耗して痛んでいるが、ロマンのものと同じモチーフであることは一目瞭然である。ただしジロン礼拝堂のそれの来歴・由来についてはよく分かっていない。次にロマンの身廊北側の西から7番目の柱頭には、アカンサスの葉の上にライオンがいる。2頭が顔を合わせる形でペアーとなり、合わせて4頭のライオンが彫刻されている。
 身廊南側のアーケードに目を転ずると、興味深いのが西から6番目の柱頭で、左右の角に聖母マリアと聖ヨハネが、それぞれ膝に本を持ちながら身を縮めるようにして座っている。マリアとヨハネの間には松ぼっくりのような実が上に付いた木の幹が立っている。二人の背後にある幾何学的な編み目文様も精緻である。マリアの顔が、ちょうど身廊を挟んで反対側の同じ位置にある柱頭の「大きなマスク」の顔とよく似ている。三角形の大きな鼻と見開いた目が特徴的である(ヨハネの顔は傷んでいてよく分からない)。「大きなマスク」と「聖母マリアと聖ヨハネ」の2つの柱頭彫刻は、そのようなわけで、制作した作者あるいは工房が同じであると思われる。恐らくはヴィエンヌの工房であろう。一方、身廊北側にある「受胎告知」と「天秤」の2つの柱頭は、それとは別の、しかし同じ作者・工房のものと思われ、明らかにブルゴーニュ(とりわけクリュニー)の影響が強い。
 身廊の南北の壁の一番下には、15世紀から17世紀にかけて順次作られていった祭室が、南北それぞれ3つずつ並んでいる。どれもみな南北幅は短いが半円筒形となったヴォールト(一部は交差リブ・ヴォールト)が架かり、祭壇などが置かれている。身廊南側の壁の西から3つめのベイにはサン=サクルマン礼拝堂に入るための入口がある。連続するパルメットや小さなブロック、そして卵形文様などが彫刻されたロマネスク様式の見事な半円形のアーキヴォルトが架かる。この入口の中は、サン=モーリス礼拝堂(東側)とサン=テティエンヌ礼拝堂(西側)があり、この2つを合わせてサン=サクルマン礼拝堂(chapelle Saint-Sacrement)と言う。東側・西側ともに交差リブ・ヴォールトが架かり、特に東側のサン=モーリス礼拝堂では太い円柱が祭室の中央に下りてきたリブを受け止めている。南側の壁には四つ葉形や小さな円形のランプラージュ(トレーサリー)が放射状に並べられたゴシック様式の大きな窓が開けられている。サン=サクルマン礼拝堂には、9枚からなる16世紀の「キリスト受難の壁掛け」(Tenture du Mystère de la Passion du Christ)が壁にかけられていて、オリーブの木の植えられたゲッセマネの園から、磔刑をへて復活までの場面が表されている。この壁掛けは、もとは15枚あったが、そのうち6枚は散逸してしまった。2つの礼拝堂を隔てる分厚いアーチの下部面には、《Trois Doms》と呼ばれるヴィエンヌの3人の殉教者(セヴラン、エクスペール、フェリシアン)の生涯にまつわるフレスコ画が描かれている。彼らがロマンの古い石造りの橋を渡る場面や、アヴィニヨンの教皇宮殿に到着する様子が見て取れる。この3人の殉教者の聖遺物は、聖バルナールが最初の修道院と聖堂を創建した後、840年に聖堂に安置されたと伝えられる。サン=サクルマン礼拝堂にはこの他にも、ロマネスク期のものと思われる背の低い方形の柱が置かれている。柱身の表面には6つの渦巻き文様が縦に連続する。また柱の一番に付けられた柱頭には、大きな目を見開いた4人の不思議な人物の頭が、四方に向けて並べられている。
 身廊の西端部には、1720年に作られたトリビューンの上に、1843年に据えられたオルガンが置かれ、中央のパイプの頂上に、彩色された聖バルナールの木像が高々と掲げられている。オルガンの背後には身廊南北の壁と同じくトリフォリウムが巡り、そのさらに上にはゴシック様式の大きな窓が開く。尖頭形のランセットの上には丸窓が付いている。オルガンの置かれたトリビューンのすぐ南隣の床には古い洗礼盤が置かれているが、それが載せられているのはロマネスク期のものと思われる柱頭である。4つの隅のそれぞれに、しゃがんだ姿勢で世界を支える4体の「アトラス神」が彫刻されている。残念ながらそれらの頭部は失われてしまっている。
 コレジアルのトランセプト(13世紀・ゴシック様式)は、中央の交差部を挟んで南北の翼廊ともほぼ同じ大きさである。しかし南翼の天井がベイ1つの6分交差リブ・ヴォールトとなっているのに対して、北翼は4分交差リブ・ヴォールトのベイ2つに分割されている。南北ともに身廊と同じくヴォールトの下が小アーチの連なるトリフォリウムである。南翼の南面の壁は、トリフォリウムを挟んで上にはランセットが3つ並ぶ尖頭形の大きな窓、下には尖頭形で縦長の窓が2つ並ぶ。北翼の北面の壁には、半円頭形で縦長のシンプルな窓が1つだけ開き、トリフォリウムの下には、かつては開口部があったようであるが(Thirion, 1972)、今は埋められてしまっている。交差部は、1134年にアルボン伯ギーグ・ドフィネによって破壊される前のロマネスク期の聖堂の後陣があった場所に相当する。天井は4分交差リブ・ヴォールトである。
 一見して後陣の一部となっている内陣は、東西幅が2メートル弱と短く、交差部から東において、五角形の後陣と合わせて全体で七角形となっている。この部分は、幾何学的で均整の取れた美しい空間構成である。天井のクレ(要石)から放射状に8本のリブが広がり、そのまま高さのある細長い壁付き円柱となって床まで降りる。交差部との境にある南北に架かる横断アーチとそれを受ける壁付き円柱は2本で一組となっている。ここでもトリフォリウムが巡るが、その上は、後陣の東側5面についてはわずかに尖頭形となった縦長の窓が各面に並び、一番南側の面(つまり内陣部の上)にはランセットと丸窓の窓が開く。一方その反対側の内陣部北側の上は、外部に小塔が建っているために窓は開かれていない。後陣のトリフォリウムの下は、各面に尖頭形で高さのあるゴシック様式の窓が並んでいる。内陣・後陣部の壁面や立ち並ぶ円柱などに、14世紀の彩色壁画が描かれている。円柱はチェッカー模様や山形模様、後陣一階部分の尖頭形の窓枠には星が並べられている。その窓の尖頭部のエコワソン(スパンドレル)には丸い花弁、さらにトリフォリウムの下に延びる水平の帯部分にはクレノー(狭間)と天使が描かれている。これらは全体として「天上のエルサレム」を表していると言う。
 ロマン=シュル=イゼールのサン=バルナール・コレジアル教会は、長い歴史の中で幾多の災禍に見舞われ、何度も破壊と再建が繰り返されてきた歴史を持つ。しかしそうした災禍をくぐり抜けて今に伝わる古いロマネスク部分には、北のブルゴーニュからの影響と、南のプロヴァンスからの影響が共に見られる。この2つの文化様式の波が出会い、ヴィエンヌ地方独自の様式的素地の上で、それらが融合している様をここで見ることができるのである。
Barruol(1992)pp.221-230 ; Bligny(1973)pp.125-126 ; Bornecque(2002)pp.36-37 ; Da Costa(2000b)pp.16-20 ; Derbier(2005)pp.50-71 ; Desaye et Peyrard et al.(1976)pp.112-118 ; Ferrier et al.(1989)pp.14-17 ; Font-Réaulx(1925)pp.146-163 ; Morel(2007)pp.58-59 ; Pau(2016)pp.55-92, pp.441-455 ; Pautrot(1985)pp.2-28 ; Thirion(1972)pp.361-410 ; Thirion(1974)pp.347-368 ; Viallet(2001)pp.37-79, pp.496-501 ; Viallet(2005)pp. 33-49 ; GV.; RIP.



参考文献と略記号
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« Mairie-montmiral » https://mairie-montmiral.fr/ (2019.11.01参照)

SAF:Cahier de la Sauvegarde de l'Art Français, Paris, Faton.
GV :Guide de Visite.
RIP:Renseignements ou Informations sur Place.


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